著者にとって山野秋邨先生との旅は本当にかけがえのないものだったんだな、ということがよく分かり、またその秋邨先生の生き方そのものがとても魅力的に描かれる"I
山中漂白"、黒本の「山怪」シリーズを引き合いに出すまでもなく、古来、山に付き物の怪異について、著者の得意とするツチノコを絡めて綴られた"II 異界草子"、そして猥談をギミックに描かれる山の夜を入口に、"みちのくの佳人"まで旅情たっぷりで滑らかに連なっていく"III
辺境異聞"。
ここまででも既に名作揃いと言って差し支えない珠玉の紀行随筆集だが、真骨頂は最終章の"IV 山人挽歌"にあった。
章の頭に収められた"陸封型"では、なお急速に留まることなく移ろいゆく、都市と里山の乖離(というか都市による里山の遺棄)の現状を、既に当時から正しく喝破し、鋭く糾弾しており、古今東西違えど折しも最近読んだばかりの「雲の上」に著されていたキリアン・ジョルネの感覚とも通じるものが込められていた。
いずれにせよ、散見された軽妙なノリはこれ以降霧消し、雰囲気は一変する。
殊に、"山家獨居の記"は、昭和のうちに死に絶えてしまった日本の原風景を静かに悼む鎮魂の詩であり、紛うことなき名文である。
「現代文明のもたらした価値の倒錯が、この山奥の村人から希望を失わせ、騒音と汚染の巷へいざなったのである。」
「所詮、人間のしあわせは都鄙のいずれにあるのでもない。」
そして"万波の廃墟"で締め括りとなる、傑作集として完璧な構成。
まさしく編集の妙技であり、編者の名前ももっと大きく表に出せばいい。
他方で、山本素石氏にとっての山行は、シンプルでピュアな余暇の娯楽等ではなく、いわば日常から、家庭からの"逃避"なのだ、ということも行間から(あるいは直接的に)読み取れる。
「廃村の夜」の中で、脳性麻痺の娘と老いた母を家に残してきたことが気に掛かり、眠れぬ夜を過ごすくだりが出てくるが、その境遇で家を空けて漂泊を続けること自体が極めてアンバランス、狂的でさえあり、また、社会性という意味合いにおいてはあまりに歪なそのパーソナリティーこそが、彼の文章を文学の域に昇華させている、とも言える。
私事だが、来年50歳になるというタイミングでこの書を手に取ったことは、行く末に立つ地をどこにするかと考える上で、何かの意味を持つのかどうか。 |