海洋空間少年ゴッホ



パブロ・ピカソ編


第1回     2004.1.18


パブロ・ピカソ
パブロ・ルイス・ピカソ
     (1881〜1973)
画家。スペイン生まれ。



画壇の巨匠。
「ゲルニカ」に代表されるその作品はあまりにも有名。
絵画の歴史を変えた革命児である。


サラブレッド

子供という生き物は自分の「親」をどういう視点で観察しているのだろうか。
親の何を見て誇りとし、また、何を見て非道く落胆するのだろう。
貧乏人の子は貧乏を恨むのだろうか。
凡人の息子、娘は在り来たりの生活に満足するのか。
金持ちのボンボンは重圧に耐えながら生きるのだろうか。
生まれ堕ちた環境は様々であれ、少なからず、
親にコンプレックスを抱かない人間なんていないだろう。
子は親の生き様、即ち、親の背中を見て育つのである。

パブロ・ルイス・ピカソ(以下、ピカソ)は、1881年10月25日に
父、ドン・ホセ・ルイス・ブランコと
母、ドナ・マリア・ピカソ・イ・ロペスの間に生まれた。
彼が生まれ堕ちた環境。
それは平凡な画家の家庭であり、ピカソは運命付けられたかのように、
絵画の道を歩んで行くことになる。
彼の父方の家系は芸術や宗教の類に献身的であり、
また、母方を辿れば、祖先に2人の画家を有した。
彼の父は平凡な画家であったが、ピカソのそれは意味を異にしていた。
彼はサラブレッド以外の何者でもなかったのだ。
しかしながら、少年時代は往々にして家業と言うものに嫌悪を抱きがちであり、
大人になってからもそれを純粋に受け入れ、誇りとするのはなかなか難しいものだ。
ピカソにとってこの環境はプレッシャー以外の何物でもなく、
同時に、それはコンプレックスであったに違いない。
しかし、ピカソは少年にしてその宿命を受け入れ、事をやってのけるだけの度量を持っていた。
数学の時間は、勉強をそっち除けで黒板に字を書く教師の手の動きにだけ集中し、
絵を描くことに努力を惜しまなかった。
12歳で美術学校に入ると、益々力を付けた。
そして、13歳の時。
彼の父は自身の絵の仕上げをピカソに任せた。
それは鳩の足を描かせるだけの些細なものであったが、
それを見た父は直様、絵の具と絵筆を手渡し、彼に引導を渡した。
そして、それ以後二度と絵を描くことはなかったと言う。
事実、この頃のピカソの絵画は驚くほど上手く、とても少年のそれとは思えない。
彼は天才以外の何者でもなく、エリートとして着実に人生を歩んで行くことになる。

ところで、彼のコンプレックスは絵画だけに留まることはなかった。
ゴッホ同様に(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ編)、
彼にも名前に関する逸話が隠されているからである。
ピカソの正式な名前。
それは、

パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・バウラ・フアン・
ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスビン・
クリスビニアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ


と言う鬼のように長い名前であった(ラピュタの呪文みたいだ)。
これは、祖先や親類の名前を受け継いだものであったが、
当の本人はこの名前を覚えることは出来なかった。
流石の天才もこれには敵わなかった訳である。


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