海洋空間少年ゴッホ



ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ編


第4回     2003.12.4


ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
ヴィンセント・ウィレム・
       ヴァン・ゴッホ
     (1853〜1890)
画家。オランダ生まれ。



ゴーギャンとの出会い

他人と暮らすと言うことは、どのような感覚なのだろう。
諸事情で同居を余儀なくされる男と女、男と男、女と女…。
世の中には、様々な理由で他人と暮らしている人がいる。
考えてみれば、夫婦なんて言うのも、
そもそも他人なのだから、不思議なものである。
あるタレント(おすぎかピーコ)の発言を思い出した。

「人間は、一緒にいると煩わしいし、ひとりだと寂しいものよ。」

なんだか身に沁みる言葉である。

ゴッホがポール・ゴーギャン(以下ゴーギャン)と知り合うのは、
1886年、33才の時である。
当時、パリに住んでいたゴッホは、恋に破れ、友に疲れ、散々な日々を送っていた。
加えて体調を害し、弟テオとの生活は息苦しいものだった。
そこに射した一片の光、それこそがゴーギャンであった。
ゴーギャンと知り合ったゴッホ兄弟は徐々に交流を深めていくようになる。
情熱家でロマンチストのゴッホ。
秩序を重んじる人間、ゴーギャン。
好対照の二人は、仲間を介して、スケッチや討論をするようになり、
徐々に互いの画家としての才能を意識し、その必要性を強く感じるようになっていった。
特に、ゴッホにおいては、ゴーギャンとの生活を強く望むほど彼を気に入っていたが、
1888年、二人は時を同じくしてパリを後にする。
ゴッホは色彩豊かで、傾倒する日本画にも似た景色のある南フランスのアルルへ、
ゴーギャンはブルターニュ地方のポン・タヴェンへと引っ越すのである。
しかし、ゴッホはつくづく諦めの悪い男である。
一度望んだことは、思うようにならないと気が済まないのであった。
そこで、テオに懇願し、ゴーギャンがアルルへ来るように差し向けた。
テオは当時、借金苦に悩んでいたゴーギャンに対しても、
何かと経済的援助を行っていた為、これを利用しない手は無いと考えたのだ。
テオは、愛すべき兄の為に力を尽くした。
もちろん、がけっぷちのゴーギャンにとって、選択の余地など無く、
まるで、策略に填まるが如く、ゴッホとの同居生活を余儀なくされるのだった。
ゴーギャン自身、テオのことを信頼してはいなかったが、
芸術家同士の生活は、刺激的であると考えた上で決断を下したのだろう。
こうして、ゴーギャンはアルルへ赴き、芸術家同士の共同生活が始まる訳である。


『黄色い家』

彼らの棲家にして、惨劇の舞台である。

生活を始めたものの、片や気難しい男、片や条理に煩い男。
最初のうちは兎も角、うまくいくはずがなかった。
しばしば論争を起こすようになり、僅か二ヶ月で関係は悪化する。
ゴーギャンはテオに対して、性格の不一致による共同生活の限界を説いた。
ゴッホは、アルルを去ろうとするゴーギャンに対して、良からぬ妄想を抱くようになった。
そして、


1888年12月23日の夕方、
散歩途中のゴーギャンの前に、剃刀を持ったゴッホが現れる。

ゴッホの妄想は、ゴーギャンを殺すと言う結論に至った。
ゴーギャンは必死に彼を宥め、何とかその場をやり過ごしたが、


その夜、黄色い家において、ゴッホは発狂。
剃刀で(自分の)片耳を切り落とす。
それをハンカチで包み、売春婦に届ける。

遂にゴッホは気の病に侵され、病院送りになってしまった。
ゴーギャンは、非情にもその隙を縫ってアルルを後にしたのである(だって、怖いモンね)。

私は、志を同じくする者が一緒に暮らす事ほど困難なものは無いと考えている。
私的な話になるが、かつて私はある都市で芸術活動をしていたことがあり、自ずと同志も増えた。
しかし、幾ら志が同じといえども、彼らがそうであったように、
個人的な趣味や感性の違いは避けられないものである。
結果、傷付けたり、傷付けられたり、しばしば感情的な対立なども起こり、
今では当時の仲間も僅かである。
そんな実体験から、私は、彼らは「馬鹿なことをしたなぁ」と思ってしまうのである。
そして、ゴッホ兄弟がエゴにさえ走らなければな、と思って止まないのである。

ゴッホの人生は終焉へと走る。



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