ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ編
第2回 2003.10.17
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ヴィンセント・ウィレム・
ヴァン・ゴッホ
(1853〜1890)
画家。オランダ生まれ。 |
青年期
「ゴッホはダメ人間である。」
私は、そう信じて止まない。
人生を総括的に観た時、
世に「青年期」と呼ばれる時代は、重要な位置を占めている訳だが、
それは、ゴッホにおいても相違ないだろう。
この時期をどう過ごしたかを考えてみることによって、
その人物の人間性が良く見えて来ると言うものだ。
そして、私がゴッホを罵る理由は、この時期を抜きにして語ることは出来ない。
では、青年期におけるゴッホとは、一体どのような人物であったのだろうか。
私なりに見解を示していくことにしよう。
第一に、ゴッホはお人好しである。
彼の鬱屈した人生を形成したのは、その両親に要因があることは先述した(第1回)。
もし、彼がその事実を意識していれば、両親を恨まずにはいられないだろうし、
無愛想になって当然のようなものだ。
まして彼自身、捨て子ではないかと懊悩したほどなのだから、
両親を嫌うことは必須だろう。
しかし、ゴッホにとって、それは違っていた。
この時期における彼は、両親を心から信頼し、休暇を共に過ごしているのだ。
これをお人好しと言わずして何と言うのだろうか。
第二に、ゴッホは馬鹿である。
彼は自身が生活難であったにもかかわらず、
貧困者や病人に手を差し伸べる優しさを持っていた。
一見すれば、好青年のように思われるが、
彼自身、生涯、援助が無くなることに恐怖していたと言うのだから、
支離滅裂である。
もっと自分の生活を省みることこそ必要だったのではないだろうか。
この二点を踏まえた上で言えることは、
彼がいかに不器用な人間であるか、と言うことだ。
生きていく上で、実に賢くないのである。
それ故に、毎度の事ながら堕落を招いてしまうのだ。
そして、この時期の一番の失敗と言えば、何を隠そう「恋」である。
これは、そのエピソード。
1873年、ゴッホはロンドンの『グーピルアンドシー』(叔父が設立した会社で、
パリに本店がある大美術商)に勤務。
その際、家主の娘アーシュラ(文献によってはユジェニー、ウジェニー、
ウルスラなど様々。この際、よし子でも)に片思いをする。
しかし、彼女には既に婚約者がおり、ゴッホの求愛は拒否されてしまう。
恐らく、ゴッホはしつこい男だったのだろう。
掘り下げて言えば、ストーカー気質だったのではないだろうか。
拒否されるほどなのだから、相当しつこかったに違いない。
言い換えれば、もう、完全に嫌がられている訳である。
この性格が災いして、彼は心身共に傷付き、失望し、自暴自棄に陥る。
1875年、会社を無断欠勤し、両親とクリスマスを過ごす。
翌年、『グーピルアンドシー』を解雇され、
臨時教員、本屋のアシスタントなど職を転々とするがどれもうまく行かず、
その後も大学で神学を学ぶべく、勉強に励むが難し過ぎて断念。
続けて、伝道師養成学校で俗人伝道師を目指すも不適切を言い渡される。
「ゴッホはダメ人間である。」
希望は絶望へと変化し、遂には己の身をも持ち崩してしまった。
両親によって形成された暗い性格と、その不器用さ故に招いた結果の賜である。
一所懸命に生きようとすればするほど、いつも裏目に出てしまう。
ゴッホはそういう人間であり、その人生は尽く悲劇なのである。
そして、この後、さらに自己破滅への道を直走ることとなる。
1880年、彼は不安に苦しみながらも、画家に成るべく志を起てる。
ゴッホ、27歳の事である。
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