森見登美彦氏が作家デビューした2003年から2017年頃までに各媒体に発表した散文集とのことで、まず一連の小編を読んでいくうちに、著者が書く各小説作品の根底に流れる息遣いがどこから生じているのか、ということがよく分かる。
幼少の頃よりどんなものに興味を持ち、どんなものを面白いと思い、どんなものを遠ざけてきたか、等々の赤裸々な吐露が、見事に作品群と連関していると感じる。
あまつさえ、森見氏なりの小説のレシピともいうべき、創作プロセスまでが公開されているのが、一読者としてとても興味深いことである。
私も著者とまったく同様に、大学生活前半の2年間ではあるが、四畳半一間の木造アパートに住んでおり、そして年代こそ若干異なれど、同じ地域圏内に生息していたので、それらにまつわる語りには強い共感を覚える。
また、計画通りに出来上がった小説はきっとつまらないという見解についても、生業とする分野は少々違うが、ハプニングが発生しクリエイターの創造を超えて初めて、作品は面白くなる、と私も常々感じていたクチなので、深く同意する。
他方、物語として破綻のない整合性よりも、断片的なイメージや文章の繋がりとリズムを重んじる、という創り方に対しては、がっつり左脳に偏向した私にとっては驚きであり、森見登美彦たる由縁の一端を垣間見た気がした。
自分は文学に目覚めたわけではない、と明瞭に述べられている氏だが、例えば「有頂天家族」シリーズなどは紛れもなく文学作品に昇華している点がまた、文筆家としての非凡性を如実に表している。
ただ、その「有頂天家族」誕生のきっかけとして、森見氏が京都の街の一角でタヌキを目撃したというエピソードが披歴されていたが、それは多分タヌキではなくアライグマではないかと思う。
どうであれ、「有頂天家族」は三部作であるらしいので、完結編を気長に待つとしよう…。
「じつのところ私は、地名さえあればなんとかなる、というふうに思っている。」
「計画的であることと、即興的であること。論理的であることと、非論理的であること。匙加減は作家それぞれが自分なりに掴んでおかなくてはならない。」
「映像を描写するというよりも、文章の感触を確かめながら書いている。」
「ここで私なりに重要だと思うことは二つである。一つ目は、最初から私は誰かを楽しませるために書いていたということ。二つ目は、私は「文学」に目覚めたわけではないということである。」
「ごつんごつんと暗礁にぶつかっているときは、『事前の計算を超えたものが生まれようとしているのだ』と考える。」
「小説にとって一番大切なものは、物語ではない。そこに生きた世界が感じられるということである。」 |