海洋空間少年ゴッホ



パブロ・ピカソ編


第5回     2005.1.9


パブロ・ピカソ
パブロ・ルイス・ピカソ
     (1881〜1973)
画家。スペイン生まれ。



画壇の巨匠。
「ゲルニカ」に代表されるその作品はあまりにも有名。
絵画の歴史を変えた革命児である。


そして伝説へ

毎日を何気なく過ごしていると、「幸せだなぁ…」と感じる半面で、
時として不意に、「あぁ、俺は何をやってるんだろう…」
という思いに立ち止まることがある。
誰もが持ちえるであろうこの感覚、それに長い間囚われると、
不安や恐怖に駆られ、悲観が続き、最終的には虚無に陥る。
「欝」なんて状態は、まさしくこれなのだろうと思う訳だが、
それならば、果たして毎日を楽しく過ごしている人間は、
この世の中に一体どの程度存在するのだろうか?
一生を楽しく過ごすことが人間にとってどれだけ大切であるかは、
その裏で自分を楽しめない人間の多くが、
自殺の一途を辿る傾向にあることからも窺える。
それを物語るかのように、今日の日本では、自殺による死者が非常に多い。
世の爺さん婆さんの常套句に、「長生きはするもんだ!」なんて言うのがあるが、
半ば日々を厭世的に送る人間にとっては、到底理解し難いものがあるだろう。
現代は病巣であり、心の豊かさこそが求められている。
昨今の「お笑いブーム」や「純愛ドラマ」が受ける理由には、
きっとこのような背景があるからだろう。

このような心の問題は、人間である以上、避けて通れるものではない。
例えそれがピカソであっても同じである。
自己のスランプや友人の死とは、いつも隣り合わせだったし、
老いて尚、家庭の問題を幾つも抱えていたのだから。
ただ、彼には切り札があったからこそ、
目の前にある幾多の困難を乗り越えることが出来たのだろう。
それは紛れもなく恋であった。

前回からの続きにするとしよう。

第三に最も影響力のあった愛人についてである。
ピカソは50を過ぎても女性との交流が盛んであった。
そんな時の出会いである。
相手はフランソワーズ・ジローという画家志望の女性。
23歳と年若く、2人は絵画の制作活動を通して親交を深めていく中で、
互いに惹かれ合った。
ピカソの情熱には、今まで数多くの女性が翻弄されてきた訳だが、
彼女もまた選に漏ることなく、子供を身篭った。
付かず離れずの男と女。
2人の子供を儲け、理想的な生活は幸せそのものであった。
しかし、ピカソの欲深さは尽きることを知らない。
特に女性という生き物への執着は、またしても別の相手に興味を示すのである。
結局、幸せな時間は長続きはせず、
フランソワーズとの関係も10年余りで終焉を迎えるのであった。
私は嫉妬という感情は常々嫌なものだと感じているが、
後にこのフランソワーズがピカソとの生活について暴露本を出したことで、
子供との間にも断絶が生じるのであった(こういう相手が一番性質悪いよね)。
ただ、ピカソの場合、それがいつも身から出た錆なのだから、
まったく同情の余地がないのである。

そして、第四に2番目の妻について。
フランソワーズとの関係がギクシャクする中でピカソが出会った女性。
彼女の名前はジャクリーヌ・ロック
26歳とまた若い女である。
彼女とはモデルとして出会い、時に旅行をし、時に闘牛を見学に行くなど、
徐々に時間を共有し合う関係になった。
ピカソにとってジャクリーヌは偉大な存在であった。
年老いた男には、それがまるで母親であるかのように心の支えとなり、
同時に良き理解者となった。
そして、8年の交際の後、正妻オルガの死に伴い、2人は結婚に至るのであった。
ピカソ実に80歳のことである(これはスゴイ!)。
ピカソにとって彼女が最愛の女性であったことは間違いはない。
それを証拠に彼にとって、ジャクリーヌは最後の女性であったし、
彼女への作品は数多く残された。

1973年4月8日。 ピカソは91歳にしてこの世を去る。
女性好きの観点で見たピカソは、極めて女垂らしであった。
しかし、ただの女垂らしと違うのは、ピカソに愛された女性がその後、
皆、自殺または気が触れる結末を辿っていることだ。
ピカソにとっての「恋」は、紛れもなく惜しみない「愛」だったのである。
今を生きる私にとっては、ある種理想的であり、
晩年まで仕事に恋に精力的に生きた彼には、
やはり天才という言葉が相応しいのである。


2004年8月。
私は日本で開かれた「ピカソ展 幻のジャクリーヌ・コレクション」の会場にいた。
ピカソの溢れんばかりの情熱が注がれた作品群の中にジャクリーヌがいた。
バランス、色彩、独創性、そのすべてにピカソの息吹を感じた。
天才の生き様を垣間見た瞬間であった。


おわり

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