もちろん芥川受賞作という予備知識を持って読み始めたわけだが、するすると非常に読み易い。
読了後に著者のSNSを拝見したところ、"オモロイ純文運動"なるキーワードを標榜されていた。
なるほど。
まず、舞台となっている山々がまさしく私が日頃うろうろしている場所そのものなので、馴染み深いことこの上ない。
作中で主に扱われる六甲山はもちろん関西随一の人気登山スポットだが、他に人影がまばら故に私が犬を連れて好んで歩くマイナールートなどもちらほらと登場するので、「メジャーになって人が増えたら困るがな…!」などと要らぬ心配をしてみたり(笑)。
私も妻鹿ほど突き抜けてはいないが、かつて先人が使っていたであろう廃トレイルの踏跡を探り出し藪漕ぎしながら辿るのが好きなので(そこに新しめのテープなど見つけた時はさらに嬉しくなる)、ひょっとしたら山のどこかで著者の松永K三蔵氏と邂逅しているかもしれない。
山に籠れば誰でも一冊本が書ける…というのはあまりに言い過ぎだが、浮世の煩累から離れ、自然の中に身を置いて独り心空ろに体を動かしていると、ふと"哲学者"になる瞬間がある。
まるで呑み込まれるかのように大いなる山の懐に抱かれ、「人間も所詮一個の動物であり、自然の脅威が牙を剥けば容易く踏み潰される無力で脆弱な存在なのだ」と気付く瞬間。
その段階を超えると、次にやってくるのは"個の消失"を悟るステージだ、私の場合。
大仰に言えば、己が大地=地球と同化し、"私"の意識を半ば以上失っているような感覚。
さらに言えば、その境地に至る時間を求め、山に入っている節もある。
山歩きの類の行為を好む向きであれば、程度の差こそあれ、おそらくはすべての人が知っているであろうそのような感覚を、著者は"バリ"というギミックを効果的に活かした上で、波多の世界と妻鹿の世界を繋ぐブリッジとして巧みに用いている。
そして波多はそのブリッジをもがきながら自らの意志で渡ることになる。
両方の世界を繋ぎ行き来することができる自分なりのブリッジを持つことは、現代社会を生きやすくするスキルになるだろう。
そのうちNHKの夜ドラになりそうな作品だな、と思ったりもした。 |