海洋空間佳本


新編 単独行 新編 単独行」★★★★☆
加藤文太郎
山と渓谷社

2022.8.28 記
そろそろ100年前にもなろうという20世紀初めに、厳冬の北アルプスなどを単独で縦横無尽に駆け巡った登山家、加藤文太郎。
もちろん通信機器などなく、装備品の質も今とは比べるべくもない当時のこと、これだけで常人には及びもつかない離れ業であり、さらに記録によると、その速度たるやまた尋常ではない。
さしずめ現代で言うならば、UTMFやTJARで活躍するトップトレイルランナーといった具合か。

本書は、加藤氏自身による山行の記述の他、親しい人が見た加藤氏の在りし日の姿が織り交ぜられたものだが、興味深いのは、他者が語る加藤氏のイメージと、本人が綴る文章との間に小さからぬギャップが見られること。
特に活動期前半の著述にはそれが顕著に感じられるが、他から見ればまったくもって超人的な脚力と胆力、そして生命力を持った卓越した山男という像である一方、自身の表現はどこまでも謙虚、控えめであり、どこにもでいそうな山歩きを愛する平凡な男…という印象を受けてしまう。
よくよく精読すると、常識からかけ離れた、シヴィアな条件下における長距離かつ短時間の縦走記録が、なんでもないことのようにさらりと書かれていたりするが…!
ただ、表現は謙虚でありながらも、心根の芯の部分は非常に強靭であり、特に単独で山岳を往くことに関しては人後に落ちぬという揺るぎない自負を抱いていたであろうこともまた、彼の文章からは窺い知ることができる。
単独行こそが至上である、というピュアで狂信的なポリシーに従っていたわけでは決してなく、むしろ他人と交わりたいのだけれどもそれがスムーズにいかない…といった複雑な心情すら読者に想像させる吐露はまさしく、"単独行の文学"であろう。
また、加藤氏は当時から高名な登山家でありながら、本職は企業に所属する勤め人であり、上司に気を遣いつつ限られた休暇を駆使して山行に宛がう苦心は、サラリーマンの悲哀でもある。
まさに生き急ぐかのように20代のうちに数々の偉業を成し遂げ、最期は31歳の若さで、槍の北鎌尾根で生涯を閉じることになるが、今生の別れとなった山行は、単独行ではなかった。

加藤文太郎氏の記録としては無論だが、残された夫人を始めとする身近な人たちによる解説、後記にとても価値がある、そんな編著であるように思う。





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