まず第一に、この小説は出自において「三月は深き紅の淵を」、さらには「麦の海に沈む果実」に大きな関わりを持つが、それらの作品とはまったく切り離して、純粋に単体の文芸作品として充分に味わい深い。
本格ミステリー作家とされながら、実際には劇中で事件らしい事件も起こらず、ぼんやりとした、それでいて言いようもなくアトラクティヴな謎を提示し、それをゆるりと紐解いたところで語りを止める、恩田陸の真骨頂たるべき作品。
ある程度の年月を生きた人間ならば誰でも共感してしまう部分を巧みに紡ぎ上げたストーリー展開は言うに及ばず、何よりも卓越しているのは男女2人ずつの視点の書き分けっぷり。
どうしてもその描写がいささか女性的で、かつ理想に寄ってしまっているところは否めないけれど、取り立ててダイナミックな事件がリアルタイムで発生しない物語をこういった手法で一切の破綻なく纏め上げるのって、実は相当に至難だと思う。
今我々が無駄に過ごしているこの瞬間だって、彼女の手に掛かれば何らかの色を持った幻想になりうるのだ、と思うとちょっと不思議な気になる。 |