私も大学の時に講義を受けていたことがある若島正先生のレヴューを見て、買い求めた1冊。
SFというジャンルに真っ向から挑みかかっている作品であり、それだけで好感度は高い。
またその試行が2010年代という今の時代と上手く噛み合っており、多少の強引な設定に目をつぶったとしても、充分に成立し、そして成功していると思う。
世界の総デジタル化、総コンピューター化というものに対しては、生理的に正体不明の不安や嫌悪を覚える人は少なくなかろうが、この小説はそういった世界が行き着く1つの姿を最大限肯定的に創造し、描いている。
作品中にあるように、人の心の動きですら解析可能な電気的情報と捉え、それを絶対的な確度で予測するためには、ほぼ生成することなど不可能なんじゃないかと思われるプログラムの定義が必要なわけだが、それを可能にしたのが道終・常イチということなんだろう。
進化の極みに達した電子計算機器が人の脳と相互補完的に生きることになれば、それはもう全知全能で、未来の出来事すら計算により弾き出すことができる、文字通りの神になってしまうのか。
そんな舞台装置に、京都御所、記紀に宗教といったアナクロなギミックが絡められているから、面白い。
脳=know。
Webを脳になぞらえている設定もきれいにハマっていると思う。
しかし、最期に知ルの脳は量子葉のもたらす計算処理に耐えきれず、知ルは死を迎えてしまう(それすらも知ルの脳は知っていたわけだが)。
先程書いた"最大限肯定的に創造し、描いている"という表現とは相反する見方だが、もしかしたら、電子葉を使う作中の人々が、いつでもどこでもスマートフォンをいじり、何かを調べる時にはすぐにインターネットで検索を掛ける現代の人々を少し滑稽な姿で映しこんでいる、と読み取れないこともないのと同様に、知ルの最期は、結局のところ人体の脳と電子機器は究極的な融合を遂げることはできないのだ、という直喩であるのかもしれない。
1点、どうしても受け入れらない要素として、ロリコン趣味が過ぎる展開はまったく不要で、この小説と著者の品性を貶めている。 |