まず大正時代に、我が子を国内に預け置いて夫婦2人であてどもなく7年もの間、海外を放浪していた…という事実それ自体に度肝を抜かれるわけだが、それ以外にも、色々な意味で現代の軟弱な日本人には想像がすら及びもつかない、タフな生き様が全編に染み渡っている。
まさに地べたを這いずる虫の如く、汚泥塗れになりながらも決して諦めることなく、剥き出しの本能が命ずるままに生き永らえ、さすらっていくという、逞しい等という表現では生温い日々が、まるで第三者が観察しているかのように極めて客観的に語られている。
あるいはこれこそがまさに、こじれきった人間の性というものか。
惜しむらくは、私が恥ずかしながら金子光晴氏の詩作等に対する一切の造詣を持ち合わせていないことだが、それであってもどすんと重しのようなものを胸に落とされたような感じがする、そんな質量を備えた作品である。
関係詞等によって接続される節が多く、誰にでも読み易い文章ではないが、小気味良いリズムの重なりで形成されるシークエンスが実に流麗。
2020年代の今では、ここに書かれているような表現や言葉の使い方がすべて容認されるものではなく、それはもちろん進歩ではあるのだが、深い味わいを持つ文学的な修辞が様々な自制や配慮によって失われていることは、率直に寂しかったりもする。
文学というものは、自身の心身を覆う布切れをすべて剥ぎ取り、丸裸になったところから初めて生じる、いわば恥辱の権化なのだということがよく分かる、重くて昏い、壮大な三部作の幕開けだ。
「私たちは、健康な体と、尻のくさったくだもののような精神とをもっていた。」
「賽の目の逆ばかり出た人間や他人の非難の矢面にばかり立つ羽目になったいじけ者、裏側ばかり歩いてきたもの、こころがふれあうごとに傷しかのこらない人間にとっては、地獄とはそのまま、天国のことなのだ。」 |