日本人プレイヤーは? 2003.3.10
2001年、初の中国人NBAプレイヤー、ワン・ジジが誕生し、
その翌年には何とドラフト一巡目1位、つまり全体1ピックという高評価で
同じく中国人のヤオ・ミンがNBA入りと、
ようやくNBAでも活躍するアジア人(といっても中国人だけですが…)が
現れ始めました。
ニュージャージー・ネッツやインディアナ・ペイサーズ、
マイアミ・ヒートでプレイしていた
レックス・ウォルターズ(2000年までNBAに在籍、現在消息未調査)も、
アメリカ国籍ながら、母親が日本人というハーフでした。
しかし残念ながら、現在日本人のNBAプレイヤーはいません。
日本人としてNBAに最も近いプレイヤーと言われ、
数年前にNBAのビッグスター、パトリック・ユーイング*1とCMで共演をしたこともある
当時の天才高校生プレイヤー、田臥勇太(たぶせ ゆうた)は高校卒業後に渡米、
NCAA・ディヴィジョンU(全米大学二部リーグ)のブリガムヤング大ハワイ校でプレイしていましたが、
生活・学業面などいろいろな意味でそのハードルは高かったようで、
2002年日本に戻ってきて、現在は社会人リーグのトヨタ自動車で活躍しています。
がしかし!驚くなかれ、実は遥か昔に、
日本人のNBAプレイヤーは存在していたのです。
NBAが創設されて2年目の1947年、
その年初めて導入されたドラフトでニューヨーク・ニックスに一巡目指名された
その選手の名はワタル(ワッツ)・ミサカ。
170センチという小さい体ながら、ユタ大で活躍していたガードの選手です。
彼は日本からアメリカに渡った移民の二世で、
正確に言えば国籍はアメリカの日系アメリカ人ですが、
両親はともに日本人の、100%黄色人種。
第二次世界大戦終結直後の当時、NBAでプレイしていたのは白人のみで、
ミサカは有色人種として、初めてNBAのコートに立ったプレイヤーでした。
推測の域を出るものではありませんが、
当時の情勢を鑑みるに多分に人種問題なども絡み合っていたと思われ、
たった3試合で彼は解雇されることになるのですが、
日本人を両親に持つワタル・ミサカは、
確かにNBAというステージでバスケットボールをプレイしたのです。
全米チャンピオンに輝いたユタ大時代
左端がミサカ |
日本名は三阪亙
1923年生まれ |
それから半世紀以上の時が流れた2003年の今、
NBAに最も近いステージでチャレンジしている日本人の名は、森下雄一郎。
その日本人離れしたクイックネスを武器にしている171センチの小さなガード・プレイヤー、
森下につけられたニックネームは“フラッシュ(閃光)”。
彼は2002年、NBDL(National Basketball Developmental League)という、
2001年に創設されたNBAの下部リーグから招かれるという快挙を成し遂げ、
現在もアメリカでNBAを目指して頑張っています。
NBAを目指し奮闘中の森下雄一郎 |
実は最近まで、NBAは直轄の下部リーグというものを持っていませんでした。
CBA*2などの独立リーグと提携はしていたものの、
メジャーリーグでいうところの3Aや2Aに相当するものはなかったのです。
そこで文字通りのマイナーリーグ、
次代のNBAプレイヤーを発掘する土壌として作られたものがNBDLなのです。
森下はそのNBDLのドラフトにかかり、キャンプにも招待されました。
これは本当にものすごいことです。
2002〜2003シーズンは惜しくも最終ロスターには残れなかったものの、
練習生としてNBDLに参加する権利を与えられた森下雄一郎、
彼がNBA入りすることができれば、同じ日本人としてとても誇らしいことですね。
|