第2日
2003年1月5日(日)
それでも3〜4時間ほどは眠っただろうか、
約12時間の飛行を終えて、ドバイ国際空港に到着。
さすが石油産出国、モハメド殿下の国、絢爛豪華、美しい空港である。
しかしそれと同時に、地べたに寝転がっている
ローカルのジプシーと思しき集団もそこかしこに生息しており、
日本に暮らしている身からは想像もつかない
絶対的な貧富の差というものがそこには現存しているのだ、
という事実も伺えた。
トイレの個室に入ってみて驚いた。
トイレットペーパーの予備ロールを入れるところに何と施錠がなされていたのだ。
こんなもの盗むか。
というか一つ二つ持っていかれて困るか?
ところ変われば。
ボクは自分の腕時計を持ってきていないことに気付き、
普段日本ではその役割を果たしていた
携帯電話なるものの存在が全く無意味であるこの道中、
それではやはり便悪かろう、
とこの空港内にて腕時計を買い求めようと思ったが、
思ったよりその値が高く、またトランジットの時間もあまり無かったので、
後ろ髪を引かれながらも諦める。
空港での待ち時間はおよそ2時間とかなりよい感じで、
再びエミレーツに乗り込み、ナイロビへ向かう。
ここからは邦人の数もグンと減り、いよいよ海外、
それも遠く離れた地へ近づいているのだ、という実感が湧き上がる。
座席は前後左右ともに囲まれた普通の席だったが、
ここからは5時間ほどの道程、まあ我慢しよう。
現地時間の正午過ぎ、いよいよアフリカ大陸初上陸、
ナイロビ、ジョモ・ケニヤッタ空港に降り立つ。
ナイロビ、ジョモ・ケニヤッタ空港の売店前にて
日本を発ったままの服装なので暑い |
当然のことながら周りの大部分はアフリカ人たち、
昨今の情勢不安、治安悪化の情報を事前に得ていたことも手伝って、
一段と緊張感が高まるTF編集長とユカリンであった。
トイレでは空港清掃員の若者たちがタバコを吸ってサボっていたり。
空港の雰囲気は「なるほどアフリカ」って感じ。
暑いところ特有の木造で、電光掲示板などもないか、
あってもほぼ稼動していない。
さすがに日本を出る時から着ている服装では暑い。
スムーズに入国審査も済み、元気な現地ガイド、イコニさんと合流。
イコニさんは年の頃40代、
何とかつて日本にボクシング留学しており、ヨネクラジムに所属して、
ジュニアライトで日本チャンピオンまで上り詰めたとのこと。
後日帰国して調べたら確かにその通り、
かなり有名有望なボクサーであったようだ。
ところが突如日本ボクシング・コミッションが導入した
CTスキャン→問題があった選手には引退勧告、
というシステムにズバリと引っかかってしまい、
それに従って引退帰国、あえなく夢潰えた、という悲運の男なのであった。
そのおかげで日本語も達者なイコニさん、
迎えに来ていたワゴン車に乗り込み、
ホテルへ向かう道中も色々な説明を交えてくれながらで、
なかなかに楽しかった。
近年の開発が特に目覚しいアフリカ随一の大都市、
という触れ込みのナイロビであったが、
普段大阪や東京などに慣れちまっている我々の目にはやはりそう映ることもなく、
ただところどころに妙に近代的な建物が建っていたりするのが目についた。
イコニさんにもはじめにナイロビの危険さを説かれ、
また写真撮影も控えるべき、と言われより一層、
ともすれば必要以上に警戒を強める。
まあ、あとから思えば多寡をくくってかかるよりも、
警戒し過ぎぐらいでよかったのかも知れないけど。
ただ写真撮影に関しては、どうにもボクの体の中を流れるジャーナリストの血、
もとい好奇心旺盛なお子様の血が騒ぎ出して、
隙を見てはパチリパチリやってたりして。
我々の前を走っていた人間満載トラック |
ナイロビの街を走っている自動車は大部分が日本製。
トヨタ、ニッサン、マツダ、スズキ…。
それにベンツやアウディなどのドイツ車がチラホラ混じる感じ。
信号は覚えている限り一つもなく、交差点は全てロータリーになっていた。
長い直線路の途中は、ところどころ中央分離帯が切れていて、
Uターン路となっていた。
ちなみに日本と同じ左側通行。
イギリスの植民地だったからだろうね。
20分ほど走っただろうか、ナイロビ・インターコンティネンタル・ホテルに到着。
ロビーでイコニさんと少しミーティングをしたあと、彼と別れて部屋に入る。
考えてみたら、この日ナイロビでする予定、
行きたいところなどはまったく思い描いていなかった、
ババッとガイドブックを見てこれからの行動を速やかに検討する。
今から出れば丁度ショーの時間に間に合うか、
アフリカの民族舞踊を観光客相手に見せてくれるという、
ボーマス・オブ・ケニア Bomas of Kenya 、
ガイドブックいわく“ケニアの明治村”に行ってみることにする。
ホテルの前でタクシーを呼んでもらい、料金交渉とか、
帰りも前で待っててくれとか、やっとのことで意思疎通を図る。
くぅ〜、もっと英語が分かればなぁ〜。
悔しいっ。
ホテルからこれも20分ほどの道のり、
ちょっと街の中心部から離れたところにその観光施設、
ボーマス・オブ・ケニアはあった。
中へ入るとそこは外光を採り入れた、
しかしほんのりと薄暗い円形のダンス・ステージになっており、
それを取り囲むようにすり鉢上の観客席が設置されている。
天井はかなり高い。
ステージの直径は15メートルほど、席数は500から1000といったところであろうか。
客の入りは少なく、埋まっているのは1〜2割ほど。
客層は黒人(ローカルなのかツーリストなのか)が一番多く、次いで白人観光客。
お金持ちそうな黒人ファミリーの5歳ぐらいの男の子が
ティンバーランドのイエローブーツを履いていたのにはいささかビックリ。
前から3列目に並んで座り、待つこと15分ほどか、ショーが始まった。
思ったより長いパフォーマンスで、合わせて10種ほどの、
楽器演奏・歌謡を含めた民族舞踊を観ることが出来た。
1つ1つのネーミングや細かい背景はまったく分からないが、
有名なマサイ・ダンスや炎を用いたリンボー・ダンス、
中国雑技団のようなアクロバティックなダンスなどをやっていた。
これは演目の一つ、火を使ったリンボーダンス |
途中10分ほどの小休止を挟み、都合1時間30分ほどはやっていたように思う。
プログラムが進むとノッてきたのか、
観客席にいた3歳ぐらいの黒人の女の子がリズムに合わせて踊り出し、
それにつられるように他の子たちもステージに上がらんばかりの勢いで
次々と体を揺らし始めて可愛かったなあ。
想像以上に満足、
ちょっと出歩くのは怖かったけど部屋に篭ってなくて来てよかったなあ、
という思いに満たされつつホテルへ戻る。
タクシー・ドライバーのおっちゃんもよいヤツであった。
ほどなくして1階のレストランへ夕食に赴く。
ここでも料金体系の説明を聞いて納得するまでに四苦八苦。
英語って難しーやー。
それぞれチキンと、
ナイル・パーチ、ティラピア、エビなどがセットになった
シーフード・ミックスを注文して食べ合う。
まったく文句はない。
ライスも頼んでみたが、これはかなり独自の風味があった。
最後にボクが頼んだジュースに氷が入っていて、ちょっと飲んでしまい、
ユカリンがしきりに心配していた。
結果的に言うと大丈夫であった。
良かった良かった。
部屋に戻り、少しテレビなどを観て(NHKも映った)、割と早めに就寝。
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