海洋空間佳本


富士山 富士山」★★★★☆
平野啓一郎
新潮社

2025.2.2 記
デビュー作こそ比類なき難解さを持つことで知られる平野啓一郎氏だが、以降発表されている作品は尋常の読解力と語彙力があれば問題なく読了、理解できるレヴェルであり、またジャンルもいわゆる純文学の枠のみに収まりきるものばかりではなく、この短編集含め読み易さと娯楽性を充分に兼ね備えている。
すべての作品を通じ一貫しているのは、"人間"と"社会"を描くことであり、またそれを実現するために"今"という時代性を反映するツールを適宜取り入れていること。
関連して、著者のポリシーが前面に表されている箇所が特に近作では多く見られることも、実に"らしい"。
加えてこの短編集に収録されている作品には、近年著者が提唱している「分人主義」の考え方が随所に埋め込まれている。
パラレルワールドというギミックは何もSFの専売特許ではなく、そのような仮定や空想を広げることがあるいは自身の苦境を和らげたり、メンタルの健康を取り戻したり、心安らかに日々を過ごせる居場所を見つけたりする一助となり得る…そんな可能性を示しているようにも感じる。
著者の平野啓一郎氏は、現在に至るまで少なくとも履歴書の見かけ上は紛れもなく社会的強者に属する身ながら、おそらくは幼少の頃より、時に反発を覚えながら世の中の在り方に疑問を感じ、様々な屈託を抱えて長じてきた故に(そもそも不自由なく育ち不遇を感じることなく生きてきた人は文学で自己表現をしようなどと思わない)、公権力やそれに類する存在に対しては厳しい目を向け自律を求める一方で、いわゆる弱者と呼ばれる人たちやマイノリティとして不当な扱いを受ける人たちに代わって声を上げ、彼らが今より生き易くなる方向に世界が変わることを望んで発信を続けている。
今回の作品群には、そのような著者の思想が存分に反映されているのではないかと思う。

「鏡と自画像」の書き出し、最初の段落は珠玉の名文。
シンプルかつ本質的で、日本語としてのリズムと構成も完璧。
冒頭以降もばちりばちりと寸分違わずはまる絶妙な比喩を繰り出しながら、張り渡された綱から落ちることなくクオリティは保たれ続け、素晴らしい文学作品に仕上がっている。
新人作家が今これを発表したら芥川賞を取るのではないかな? いや完成度が高過ぎて不自然か…。

著者の作品に投影された言説には若干風紀委員のような雰囲気があり、読んでいる最中、例えば会社でハラスメント研修を受けながら「自分は大丈夫かな…?」と自問自答をしている時のような、名状し難い居心地の悪さというか緊張を強いられることがある(苦笑)。

「辛くなると、痛み止めを飲むように『計画』のことを考えた。するとその間だけは、少し心が楽になった。」





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