海洋空間編集長雑記



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2003年6月分




2003年6月30日(月)
「とあるオーナー・シェフの新しい一歩」


昨晩は、知り合いのフレンチ・シェフの結婚パーティーがあり、
神戸・北野の「老香港酒家」という店に行ってきた。

そのシェフは、年は私より3つ4つほど上、
彼が前の店に勤めていた時から、もう7年ほどのお付き合いをさせてもらっている方なのだが、
30歳の若さで独立開業、以来オーナー・シェフとして料理に対する並外れた探究心と努力でもって、
小さいながらも本当に素敵なお店を切り盛りしておられるエライ人なんである。
もう、全然知らなかったですよ、そんなイイヒトがいたなんて!

ところで「老香港酒家」の料理にはまあビックラこいただな。
つーか美味かったな。うん。
ブクブクに肥った北京ダックに、なんか訳の分からん高級食材がたっぷりぶちこまれた炒飯、
それにあのフカヒレスープのフカヒレときたら!
無論ナンチャッテ・フカヒレではない本物に決まっていて、それに加えてデカイのなんのってさ!
一切れ食べ切るのに、5口も6口もかじるフカヒレなんて初めて見ただよ。

やや会費は高めだったけど、それに見合うだけの素晴らしい料理でした。
さすが一流料理人が選ぶ店だけのことはあるなあ、と素直に感心。

梅雨の合間の晴天だったので、摩耶山まで一っ走り、神戸の美しい夜景を観て帰ってきた。

摩耶山からの夜景

TAKOHさん、おめでとうございます。



2003年6月28日(土)
「人間には守備範囲ってもんがあるさね、『恋愛寫眞』を観て思う」


せっかく早起きしたのに(つっても9:45)、ぜんっぜんつながならくて
プリプリしながら映画を観に行ったのである。

「恋愛寫眞」。
主演は広末涼子と松田龍平。
監督は映画「ケイゾク」、映画・TVドラマ「TRICK」なんかを手掛けた堤幸彦。
今最も注目を集めている、“イマドキ”な演出家の一人だ。

がしかーし!
またも批判ばかりでチト申し訳ないが、今回も駄作!宣言。
物語の骨子となるべき土台のストーリーは本当に見事な、
料理次第で金銀珠玉に化けるものを持っているのに、
それをなんでこんなブチ壊しにしちまうんかなあ。
暴言無礼誠に失礼、すべて監督が悪い、演出が悪い。

まず演者の芝居がどうしようもなく、マズい。
劇中一言とか二言とかしゃべらないような、
いわゆるセリフつきのエキストラというものがどんな映画やドラマにもいるものだが、
実はそういう立場の人たちの芝居というのは、出番が少ないからこそとても重要だったりする。
どういうことかというと、そういったセリフつきのエキストラたちに与えられる役柄、芝居は、
エキストラであるがゆえにとても日常的な、どこにでもいるような人たちのものであることがほとんど。
だからこそ、そのちょっとした出番、芝居がヘタクソだと、ものすごく悪い意味で目立ってしまうのだ。
良い意味で個性を消し、観客にその存在感を感じさせないのが本来のエキストラの役割なのに、
「恋愛寫眞」のエキストラたちはそれがまったくできていなかった。
もちろん現場での演出にも大きな問題があったと思う。
あの芝居でOKを出すとは、ちょっと俄かには信じ難い…。

本当はエキストラはオーディションにオーディションを重ねて、ごく日常的な振る舞いを自然にできる、
芝居の上手な人を選ばないといけない。
そうしなければ、絶対にいい映画なんかできっこないと、ボクは思う。
でも堤幸彦監督はそれをしなかったみたいだ。

そして肝心のプロットに関しても、
前述のようにその骨格は本当に魅力的なストーリーだとは思うのだが、
いかんせんその味付け具合が最高に悪い。
なぜシリアスな、感動させたい話の中に、マンガ的荒唐無稽なエピソードを挟み込む?
大学を卒業し、離れ離れになった元彼女を恋焦がれながら
カメラの道を頑張って歩んでいる青年の等身大の生活を
リアルに描き出す映画に(少なくともボクはそう思っていた)、
なぜ銃撃戦や殺人鬼や小さな笑えないギャグが必要なのか?

マンガ的な映画が悪いということじゃない。
「チャーリーズ・エンジェル」や「ミッション・インポシブル」や「ダイ・ハード」のように、
これはマンガだよ!と割り切っているエンターテインメント・ムーヴィーは
実に愉快じゃないですか。
最悪に始末に終えないのが、どっちつかずの映画。
リアルを感じさせたいのか?マンガを描きたいのか?

フィクションの中にも“フィクションとしてのリアリティ”がないと、民衆はついて来ませんぜ。

さらに毒吐きついでに付け加えちゃうと、松田龍平クンは思ったよりオーラが出ていないのだな。
七光りがなければとても陽の目を見るような俳優ではないと思う。
俳優陣の中で光っていたのは広末涼子だけだった。
彼女の持っているスター性はやっぱりホンモノじゃないですか。

「TRICK」は好きだったんだけどなあ。
やっぱりどんな才能ある人間でも、守れるポジションとそうでないところがあるっちゅうことですな。



2003年6月27日(金)
「ボクがなりたくなかった職業」


昨日は子供の頃なりたかったものについて書き記したが、
本日は逆に、これだけはなりくたくない!と思っていた職業について一言述べよう。

それは電車の運転士。

私は、今でもそんなに好きではないのだが、子供の頃は本当に
電車に乗っていることが嫌で嫌で仕方なかった。
動いていること、声を発していること、
何かイタズラを考え仕掛けていることが何より大切だった当時の私の生活にとって、
電車に乗っている時間ほど退屈極まりない無駄な時間はなかったのだ。

乗客としてチョコンと乗っているだけでもあんなに死ぬほど退屈なのに、
ましてや一日中立ちっぱなしでその電車に乗っている運転士なんてものは、
TF坊ちゃんにとっては地獄の責め苦、
刑務所に囚われることにも等しい罰に見えていたのである。
ヒマヒマ退屈気狂い地獄の刑じゃ。

今思うと、私は生まれてから高校卒業まで名古屋に住んでいたのだが、
乗る電車といえばそのほとんどが市内を走る地下鉄だった、ということも、
退屈地獄観念発起の一因となっているかも知れないな。
地下鉄ってもちろんずっとトンネルの中を走行していて、
窓の外を過ぎてゆくのはひたすら闇ばかり、外の景色はまったく見えないじゃないですか。
だから子供にとっては、外を走る電車に比べてよりいっそう退屈なハコなのだろうね。

関係ないけど、地下鉄に乗ると他に見るものがないから人の顔ばっか見てませんか?
そして多分他の人たちもそうしているから、やたら誰かと目が合ったり。
何か居心地悪いんだよね、地下鉄って。

最後になりましたが、頑張ってください、運転士の皆様。



2003年6月26日(木)
「ボクがなりたかった職業」


私が子供の頃なりたかった職業はプロレスラーである、というのはもはや周知の事実である。
なわけはない。

ところが、プロレスラーになりたかった、というのは実は紛れもなく本当で、
小学生当時大ブームを巻き起こした初代タイガーマスク(正体:佐山聡)、
そのタイガーマスクと因縁の死闘を繰り広げたダイナマイト・キッドに小林邦昭、
身長223センチの大巨人、アンドレ・ザ・ジャイアント、
つい最近まで現役で活躍していたスタン・ハンセンに、
今なお老体に鞭打ってリングに立ち続けるハルク・ホ−ガン、
その他、ファンク兄弟にエリック兄弟、ディック・マードック、ブルーザー・ブロディ、
リック・フレアー、タイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャーなどなど、
愛して止まなかったレスラーたちは枚挙に暇がない。

その頃のプロレスは今のように一部の格闘技好き人間たちだけに向けられたものではなくて、
いわば「8時だヨ!全員集合」や「スクール・ウォーズ」のように限りなくファミリー向け、
家族揃って楽しめる大衆娯楽であった。
テレビの放送時間もゴールデン・タイムのど真ん中(新日本プロレス)、
ちなみに古館伊知郎が名を売ったのもテレビ朝日のプロレス中継「ワールド・プロレスリング」からである。

必定、どの家庭も家族揃って休日に動物園に行くような感覚で、プロレス生観戦に行っていた。
なわけはない。
ないけれど、私は相当行った。
十数回。
その数多いプロレス観戦経験の中でも、今でも忘れられない戦慄の体験がある。

試合が始まる前の選手入場の時には、その選手固有の入場テーマ曲が場内にかかり、
それに伴ってオーディエンスのテンションもアップ、選手が入ってくる花道に数多くの観客が群がる、
というのが通例と、言い換えるならば、いかにもプロレス・オブ・プロレス的な予定調和の儀式となっていた。
「プロレスラー名鑑」を座右の書とし、自分が生まれる前から活躍していたボボ・ブラジルや
義眼の戦士、“人間風車”ビル・ロビンソンのこと、はたまたスタン・ハンセンのウェスタン・ラリアートが
“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノの首の骨をへし折った逸話などに通じているほど、
完璧にトチ狂っていた小学生当時の私ももちろん、
選手が入場してくる折には花道に殺到する群衆一味の構成員として積極的に参加していた。

その日も私はディック・マードックの汗でベチョベチョの肩にタッチすることができすこぶる上機嫌、
そして間もなくメインイヴェントのアントニオ猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアントが始まろうとしていた。
もちろん言わずもがな、再び選手が入場してくる花道へと足を向ける。
もちろん言わずもがな、アンドレのサイドへだ。

猪木は日本最強のカリスマ・レスラーといえども、所詮は話の通じる日本人、
そんなベビーフェイス・レスラーに近寄ることができても、それは手柄でもなんでもない。
言葉の通じぬ大巨人、もしかしたら目が合えばとって喰われてしまうかも知れないモンスターに
あえて危険を冒して接近を試みる、もっと言えばタッチを試みることこそが男の本懐なのである。
などと破綻論理的に考えていたわけではなく、ただ単に好奇心でアンドレのサイドへと私は行った。

ぬおお、やはりこの立ち込める緊迫感は他のレスラーの時の比ではないわ。
その集まった人数、そして発散される熱気ともに尋常ではない。
いよいよ223センチの大巨人、アンドレ・ザ・ジャイアントが入場してきた。

しかしその時の群衆の動きは、
他のレスラーが入場してくる時とは、また私が期待していたものとは違った。
群衆はアンドレのボディにタッチしにいく代わりに、ザーっと打ち寄せた波が引くかのごとく、
逃げ始めたのである。
まるでモーゼの奇跡のように、アンドレがその歩を進めるたびにサーっと引いていくたわけども。
小さかった私は抗う術もなく、思いっきりその波に飲み込まれた。
もみくちゃになりながら、「アンドレは、アンドレはどこ!」

気がついたら履いていた靴が片一方なくなっていた。
プロレスを観に来ただけなのに、靴が一つなくなった。

それからあまりプロレスを観なくなったような気がする。
そして体が細かったので、結局プロレスラーにはなりたくてもなれなかった。



2003年6月25日(水)
「日本語は縦書きがやっぱり一番…」


横書きテキストスタイルをとるのが通常の形態であるwebにて発表するのもいかがなものか、
という話だが、日本語は縦書きに限る!とつくづく思う。

元来、日本語にて使用される文字は、
漢字・かなともに縦書きされることを前提として産み出されたものである。
アルファベットの筆記体に当たる日本語の行書は言わずもがな、縦。
江戸時代末期に公式の歴史の上で初めて西洋文化に触れるその時まで、
横書きの日本語、というものは一般には存在していなかった。
書をしたためるスペースの都合上どうしても横に文字を綴らなければいけなかった場合は、
縦書きの文章が右から左に綴られるように、その日本語は右から左に向かって並べられた。
つまりそれは、観念的には横書きの日本語、ではなく、
一行の文字数が一文字である縦書きの日本語、だったのである。

そんな生い立ちからして生まれている文字であるから、というわけでもないが、
日本語で書かれている文章を読み進む時、
それが横書きで書かれているよりも縦書きの方が遥かに読み易い、と僕個人的には強く感じる。
そしてそれは決してパーソナルな感じ方ではなく、割と一般に通用する概念である、
ということがいろいろな調べものをしていくうちに分かった。

学術論文ではないのでここで詳しくそれらに言及することはないけれど、
たとえばとある大学で、学生たちに同一のテーマを与え、
そのテーマについての作文を縦書き、横書き両方のスタイルで書かせたところ、
同人比較において、横書きスタイルの方が圧倒的に砕けた文章になりがちで、
縦書きの文章の方がより論理的な、起承転結の明確なものとなっていたそうである。
リーディングにおいてその内容の理解が進みやすいように、
ライティングにおいても縦書きの方が日本語を使った論理的思考を助ける、ということなのだろう。

確かにそれは実体験としても激しく頷くことができる。
僕も仕事の時、たとえばヴァラエティ番組の構成を書く際なんかは横書きで書くけど、
真面目なドキュメンタリーのナレーション原稿を書くときには、
ワープロソフトの仕様を縦書きにして作業をしている。
その方がすんなり筆が進むのだ。
読む、ということについて思い起こしてみても、
たとえば新聞が横書きであったり、芥川賞受賞作が製本されてみたら横書きであったり、
池波正太郎の小説が横書きであったりしたら、想像するだに恐ろしい。

ちょいと話は横道に逸れるが、英語と日本語を比較した時、
熟読するのではなくパッと見た時、より視認性が高いのは日本語の方であるらしい。
どういうことかというと、たとえば本屋でザァーッと本棚を眺めながら、
目当ての本、もしくは目当てのキーワードを含むタイトルを持った本を探す時。
日本語の本を探し当てるまでに費やす時間の方が、圧倒的に短いということなのだ。
もちろん各々のネイティヴ・ユーザーがトライしての話である。
アメリカ人が英語の塊の中からキーワードを探し出すよりも、
日本人が日本語の塊の中からキーワードを探し出す方が早い。

周知のように、英語とは26種類のアルファベットという文字から構成される言語、
それに対して日本語は50種×2あまりのかな・カナと無数の漢字を組み合わせて使う、
いわゆる漢字かな混じりの文体。
根拠はそこにあるようだ。
いうなればアルファベット群から成る英語の行列を読むことは、
ひらがなだけで書かれた日本語の洪水を浴びているということに近いのかも知れない。
そりゃ探したい言葉も見つかりにくいはずでしょう。

日本語は誠に奥が深い。



2003年6月23日(月)
「普通に楽しい休日の過ごし方」


昨日、日曜日は休日の過ごし方のススメその1、いわゆるゴールデンコースを歩んだ。

一時間半の睡眠の後、早朝野球、投手として先発し、
審判に「チミチミ、それはボークとみなされることもあるから注意してね」と、
牽制時のフォームについての忠告を受けたものの、
その精神的ショックから見事な立ち直りを見せ、5イニングを自責点0、失点1と踏ん張る。
だが例によって打棒が振るわぬ。
サードフライ、三振(しかも得点圏に走者)、ピッチャーフライと抜群の勝負弱さを発揮し、
松井、新庄をも遥かに凌駕する体たらく。
試合も2-3で惜敗してしまった。
うーむ、マシンとは違い、やはり人の投げる球には呪詛がこもっておるのか。
セイヤン、今度助っ人として来てくれい。

昼からはポンヨウたち、牛頭大王一家と、ヨッちゃん(夫)・ユリっぺ(妻)のM山夫妻が我が家を訪れる。
それも俺が睡魔のあまり、惰眠を貪っているひと時を狙いすまして。
よう来た、寝てる間に。
天気がよければいつものように大阪城天守閣のてっぺんで、もとい大阪城公園の芝生の上、
ブルーテントハウスに巣食うノラビトたちの横でバーベキューを楽しもうではないか、
と語り合っていたのだが、あいにくの小雨につき家内で鉄板焼きをすることにしたのだ。
ちなみにヨッちゃん夫妻が色違いのアロハシャツ、
いわゆる一つのペアルック、を身に纏っていたことは隠しておいてあげよう。

13時前に叩き起こされ、リヴィングダイニングに行くとすでに構成員総員勢揃い、
食事の準備も万端に待機中であった。
意識朦朧としたままボソボソと箸を進める。
牛頭大王のジュニアたちは第一子・むーむー(女児)、第二子・レンボー(男児)ともに大食の気があり、
すでに飢狼の如く食い荒らし、おまけに部屋の中の陳列物も排撃しつつある。
さらにレンボーにいたっては、それに触れたものを一瞬のうちに白痴化してしまうという、
恐るべきでろでろ唾液ジュースを垂れ流している。
インシャラー。

何とか採餌を終え、唾液モンスター・レンボーが眠りに就くという僥倖に恵まれて、
牛頭大王が妻、ヒロポンも大喜びといったところである。
おまけに先程までパラついていた雨もすっかり上がったようだ。
そこで我々は、ホッコリとするヒロポン・レンボー母子を我が家に残し、
バドミントンセットとバレーボールを手に手に携え、近所の公園に行くことにする。

牛頭大王が長女、むーむーは聞きしに勝る公園好き、大いにはしゃいでおる。
その児戯の相棒を無難にこなすのがヨッちゃん。
彼はむーむーのみならず、その弟、レンボーにも佳く気に入られていた。
生来の保父さんオーラをその体から発散しているのだろうか。
心を許してくれるものといえばイヌネコの類ばかりという俺からしたら甚だ羨ましい限り。

子供2人の付き添いといえばあまりに過大な大人5人、
恥ずかしげもなく遊具に心躍らせ、奇声に雄叫びを次ぐ。
逆上がりにムササビ降り(地域によってはコウモリともいう)、
ブランコからの靴飛ばしにウンテイの上歩き。
それに持参した用具を使用してのバドミントン、バレーボールにも勤しみ大いに汗を流す。

ふと目を転じると、何やら大樹の上方に視線を投げかけ、
何物かを探し求めるような色をその顔に浮かべる若い母親が一人。
どうしたことかと訊いてみると、娘御とバドミントン中、
誤ってそのシャトルを樹上に乗せてしまったとのこと。
而して目を凝らしてはみたが、一向にその所在がつかめずお困りであったのだ。
スワと馳せ参じて我々も捜索に協力してみたものの、はて、確かに見つからぬ。
どこやどこやと男衆が惑っていると、ヨッちゃんが妻、ユリっぺがフラフラと近寄ってきて樹上を一瞥、
そして一言「アソコにあるやん。」
ナニワの街のど真ん中にマサイ族の女戦士を見た。
しかし女戦士よ、その獲物を見つける視力には感服するが、
見つけた獲物を捕らえるには少々減量が必要なのではないかい?
という風なことは心裡に浮かんでも言うまい。

佳き一日は暮れて往きにけり。



2003年6月21日(土)
「映画『8マイル』観劇記」


映画「8マイル」を観てきたよ。
これから観る予定、の方は読まない方が良いかも知れません。
と思ったけどやっぱり大丈夫です。ネタバレなし。

白人ラッパー・エミネムが主演を務めるシリアスな映画。
最近の映画で人種差別問題を扱ったものとしては、
「アメリカン・ヒストリーX」が傑作として挙げられる、とボク個人的には思っているんだけど、
この「8マイル」はまたそれとはまったく異なった角度から人種問題を捉えた、
なかなかに良い作品だったと思う。
というかこの書き方では誤解を与えるかも知れないな、
メインテーマが人種問題なのではなく、そのストーリーに大きく関わってくる、
という意味だけど、「8マイル」においては。

ギターの音でも、ストラトキャスターとレスポールではその奏でる音色が異なるように、
歌声、ライムの場合でももちろん、黒人の出す声と白人のそれではやっぱり違う。
それを踏まえた上であえて言うが、ご存知のようにエミネムが身を置くスタイル、
ヒップホップの世界は黒人のもの、というのが通説であり常識。
そしてやっぱり、白人・エミネムの紡ぎ出すリリック、ライムは黒人のものとは全然違うもの。
エミネム以前に活躍していた白人ラッパーの代表、ヴァニラ・アイスもそうだったけれど、
エミネムの楽曲からはそれ以上に“怒り”というものが感じられる。
それと同時に“切なさ”とでも表現できそうなものも。
それらは、ノーマルなブラック・ヒップホップからは伝わってこない類のエモーション。

黒人アーティストたちも、N.W.A.やアレステッド・ディヴェロップメントのように、
いわゆる社会派といわれる人たちは、そのリリックの内容に“怒り”を込めてきたけれど、
いざ楽曲を耳にした時に感じ取れる感情は、エミネムのそれとはまったく異質であるとボクは思う。
なぜなのか、その深いところにある根拠は分からないし、
ここでそれを論じることができるほどボクは事情に明るくはないけれど、
黒人の歌う“普通の”ヒップホップからは、
つまるところ最後の最後に放たれる感情は理屈ヌキで底抜けに前向きな“ノーテンキさ”、
だと思うのだ。
いくら怒っている、嘆いている、哀しんでいるリリックでも、
「Yo!ブラザー、そのうちなんとかなるぜ」という、先天的なポジティヴさ。

ところがエミネムのライムにそれはない。
今回の「8マイル」の主題歌『Lose Yourself』もそうだし、
『Without Me』もそう、『I'm Shady』も然り。
特に『Without Me』の曲中延々流れているあの物哀しげなリフは何だ。

いいとか悪いとかではなくて、ヒップホップの世界の中ではエミネムは絶対的に異質な存在。
「8マイル」は、エミネムの半生をモデルにした、半自伝ともいえる映画で、しかも本人が主演。
これを観ると、その“異質さ”がとてもよく分かる。
リアル過ぎて辛いほどに。苦しいほどに。
それをエミネム本人が痛いほどに自覚的だということも。
そして、彼の楽曲からほとばしる“負の感情”の拠り所も、何となく分かったような気がする。

白人は本物のヒップホップは吐き出すことはできないのか。
黒人は本物のHR/HMを奏でられないのか。
白人は本物のブルーズを、ジャズを爪弾けないのか。
アジア人は短距離走の世界で頂点には立てないのか。
藤ジニーさんは本物の温泉旅館女将にはなれないのか。
ジェイソン・ウィリアムズはただのチョコレートにはなれないのか。
牛頭大王は人間には戻れないのか。



2003年6月14日(土)
「Gacktに会ったぞ」


今日は激しく自慢のコーナーである。
私の担当している番組に何をどう血迷ったか、Gacktがゲスト出演してくれることになり、
その収録を終えてきたのだ。

生で初めて会うガックンは熱い漢だったぜ!
「よろしく」と差し出された右手は、そのイメージとはかけ離れて大きく力強かった。
昨晩は大阪城ホールでコンサートがあり、そちらもお招きいただいて観てきたのだが、
その動きなどから推察するに、噂に違わず彼は相当体を鍛えているらしいことがよく分かった。
実際に今日間近で見たそのシェイプも、ウエストなんかはビックリするぐらい細かったけれど、
腕や胸板なんかはなかなかにゴツかったぞ。
その前に、俺の足ぐらいの太さの腕を持ったガイジンのボディガードを2人連れていたのにも驚いたぞ。

あと、彼は大変な「北斗の拳」ファンで、今度発売されるOVAに声優として出演していたり、
主題歌も提供していたり、コミックバンチ誌上にて原哲夫氏と対談をしていたりするのだが、
何を隠そう俺も小学生以来のケンシロウ・マニア、
その話で少し盛り上がったのも個人的に嬉しかったぞ。

タレントにももちろんいろんな人がいる。
丁寧な人、そうじゃない人、ワガママな人、気配りの人、テレビで観るまんまの人、そうじゃない人…。
また、実際に会う前は好きだったけど、会ってみるとそうでもないなぁ、となってしまう人と、
逆に会う前は特別に興味もなかったけれど、会ってみてその魅力に気付かされる、
というタイプの人がいる。
今回のGacktはモロ後者だった。
むちゃくちゃ愛想がいいわけでも、優れた人格者というわけでもない(多分)けれど、
やはりそのカリスマ性は尋常ではなかったぞ!

テレビの仕事をしていても、こんなことはあまりない。



2003年6月11日(水)
「ファミコン買ってもーたがな」


初代ファミコン復活計画続報である。

本日無事にオークションの出品者から、
ツインファミコンと注文していたディスクシステムのソフト5本が届いた。
その勢いをかってカセットのソフトもいくつか仕入れるべーと、ミナミの中古ソフトショップへ。
そこで一つ分かった。
俺が小学生の頃、まさにファミコン絶頂期リアルタイムでやっていた時にハマっていた、
こいつはサイコーだぜ!と思っていたカセットをいくつか買おう、と思っていたのだが、
そういったソフトたち、私が面白いと思っているソフトたちに限って、値段が高いということにだ。
ほとんどのソフトたちは箱・説明書なしならば数百円といった単位で売られている、
ということを前もって聞いていたのでその心づもりで赴いたのだが、面白いソフトはやはり高かった。
いいものは高い、評価の優れているものは高い、需要の多いものは高い、という、
自由経済においては根本的でありながら、実はそんなに当たり前には横行していない大原則が、
中古ファミコンソフト市場には脈々と息づいていたのである。

新品で発売される時はどんなソフトも、
いってみれば、面白かろうがつまらなかろうが定価にそれほど差はない。
ところが中古市場においては、その値段はメーカーが決めるのではなく、
ユーザーのニーズ、一般的な評価というものが大方決める。
そういった意味において今日見た中古ファミコンソフトたちは、非常に適正な価格付けがなされていたなぁ、
と強く感じた次第である。

やっぱり俺がやってて面白いと思ってたものはみんな面白いと思ってた。
そんな中今日は下記の4タイトルを購入。いずれも箱・説なし。
あまりに高いものはやめたけど、それにしても結構したわ…。

・ロードランナー…780円
・マッピー…1480円
・チャレンジャー…980円
・スペランカー…1880円



2003年6月8日(土)
「スポーツのススメ」


30を目前にして、この頃えらく体を動かしている。
今月に入ってからも、バスケットボール、水泳、野球と。
以上3種目はそれぞれ、月平均2〜3回ほどのペースでやっているし、
家ではウェイト・トレーニング。
あれ?オレ、ヒマ?
当然体の動きは、今も頭の中だけに未練がましく残っている10代の頃、
往年の動きとは比べものにならないほど衰えているので、
「あり?」と思ったり、足がもつれてコケたり、
今もヒザを捻挫してしまってイタイイタイ状態であったりということもままあるが、
体を動かしていると太らない、体調も良い、食事も美味い。
スポーツは本当にいいものだ!
だから何だ?

今日の結論;お金を使わずに休日を楽しみたいアナタ!散歩かスポーツに限ります!

追記;「ツインファミコン」(カセット式のファミコンとディスクシステムが一体化した製品)を
    オークションで落札してしまいました。



2003年6月6日(金)
「初代ファミリーコンピュータにまつわるノスタルジー」


私、いや、私たちの汗と涙の青春の象徴、
あの「ファミリーコンピュータ」の今年9月末での生産停止が決まったそうだ。
実を言うとまだ作ってたんだ!ということに少し驚いたりもしたんだけど。

いやーしかしなんだ、やっぱり感慨深いものがあるなぁ。
今でこそ家庭用ゲーム機は当たり前の存在になり、
そのハードの種類もプレイステーション(2含む)、ニンテンドー64、Xbox、ワンダースワン、
ゲームボーイ、セガサターン、ゲームキューブなどなどなど多数、
ワシらおじさんにはよーわからん状況ですらある。
しかし今からちょうど20年前の1983年当時、9歳だった私とその周囲のガキどもにとってのみならず、
「ファミコン」の出現は日本社会に大きな大きなインパクトを与えたのである。
今の若い人たちにはピンと来ないかも知れないけれど、本当に大げさじゃなくそうだったのだ。
それこそ今でいうところのデジカメやDVDやIP電話が世に出たどころの話ではない。
タイムマシンができた!あるいは、アナタもこれを飲んだら透明人間に!
なんて発明に匹敵するぐらいの衝撃度だったと断言しちゃおう。
なわけないか。

その生産打ち切りのニュースに触れ、
自然と「ファミコン」に熱中していた当時の記憶が鮮明に思い起こされてきた。
そして、今のゲームはグラフィックやサウンドは格段に進歩し、スケールもデカくはなったけど、
ゲームの本質たるべき“面白さ”に関しては当時のソフトの方が優れたものが多かったなあ、
ということもまた、同時に思われたのであった。

たとえばここでズラズラと、当時私が必死こいてやっていた「ファミコン」用のソフトを列記してみる。
説明の必要もない超人気シリーズのスーパーマリオやドラクエ、ファイナルファンタジーは無論のこと、
ゼルダの伝説、リンクの冒険、スペランカー、エレベーターアクション、チャレンジャー、ボコスカウォーズ、
ハイパーオリンピック、パルテナの鏡、キン肉マンマッスルタッグマッチ、ロードランナー、マッピー、
ドラゴンバスター、ドルアーガの塔、ボンバーマン、いっき、魔界村、夢工場ドキドキパニック、プーヤン、
バルーンファイト、女神転生、エキサイトバイク、グーニーズ、ゴルフ、アイスクライマー、ウィザードリィ、
新鬼ヶ島、スターフォース、ベストプレープロ野球、悪魔城ドラキュラ、スパルタンX、などなど。順不同。
ここにザっと挙げたものはすべて私が大傑作と認める作品たちである。
苦情・抗議・罵倒は一切受け付けません。

こんなことを昼間っからポケターンと考えていたら、無性に初代ファミコンがやりたくなってきた。
買うなら今しかないかな?





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