バックナンバー 2003年3月分 2003年3月31日(月) 「管理者になって感じた素朴な感想」 インターネットをweb(クモの巣)とはよく言ったものだ。 たとえばこのサイト、公開されてまだ3週間というヒヨコサイトに過ぎないわけだが、 それでもおかげさまでメールを頂くこともあるし、 掲示板にも少なくない人が訪れてくれる。 当たり前のことだが、我がサイトの掲示板で、 俺(またはユカリン)とAさんが対話を交わす。 俺とBさんも対話を交わす。俺とCさんもまた然り。 でも、AさんとBさんとCさんが会話をすることはあまりない。 自分が管理者となる前は、そんな当たり前のことにも今まで気を留めたことがなかったけれど、 いざ当事者になってみると、そのことがとても不思議に感じられる。 今でも充分にweb上のつながりを実感することはできるのだが、 AさんとBさんとCさんがつながることもできたら、もっと素晴らしいと思う。 でもそのために何をしたらいいのか、具体的には思いつかん。 それを実現できるようなアイディア、誰か教えてくれませんか。 2003年3月25日(火) 「一青窈『もらい泣き』に思う」 少し前から流行っている、一青窈の「もらい泣き」。 あの曲の中で、歌声にエフェクトをかけている部分がある。 歌詞で言うと、“愛をよく知る親友とかには”とか “ダンボールの中 ヒキコモリっきり”とかの箇所。 あの部分でとても気になるのが、息をすぅーっと吸い込むブレス音。 たとえばアコースティック・ソングなどの場合、 そのレア感を残すためにあえてギターのストリングスの上を指が滑る音やブレス音を切らないことはある。 でもこの「もらい泣き」のケースは違うと思うんだよなぁ。 シンセや打ち込みを多用したりと、曲全体のトーンはデジタル臭い仕上がりの中、 時折入るアコースティック・ギターと歌声には残された生っぽさを感じることのできるこの曲。 しかし前述の箇所で声にかけられているエフェクトはその生っぽさを強調する方向ではなく、 逆に機械的、無機的なイメージを強める歪み系のトーン。 どちらかというと、一昔前のMINISTRYとかKING CRIMSONとかの、 インダストリアル・ロックあるいはプログレッシヴ・ロック(一昔どころじゃねーな) の歌声を髣髴とさせるような方向。 わざわざそんな機械的なディストーション系のエフェクト処理をしておきながら、 あえて生唄感の残るブレス音をそのままにミキシング。 うーむ、俺には意図がよーわからん…。 2003年3月22日(土) 「喉が痛くなるメカニズム解明?」 「風邪で鼻が詰まった状態で寝ていると、口で呼吸せざるを得ない。 口で呼吸を続けると喉が乾燥する。だから、風邪をひくと喉が痛くなるのだ。」 これは本当ですか? 2003年3月20日(木) 「月並みですが、戦争開始に際して思うこと」 ついにイラク攻撃が始まってしまいましたな…。 しかしアメリカはなりふりかまわず、ビン・ラーディンが捉まらない今 どんな手段を用いてもいいから、 とにかく一刻も早くおととし9月の復讐をしたかったんだろう、 というのが素直な感想。 ブッシュ大統領のコメント聞いてても、 「アメリカとともに世界を守るみなさん」と呼びかけたり、 相変わらず“アメリカ=グローバル・スタンダード”な発言、 きっと妄想の中ではスーパーマンのコスチュームでも着てるんだろう。 親子二代に渡るイラク(サダム・フセイン)に対する私怨も多分に感じられる。 戦争にルールなんてない、と言ってしまえばそれまでだが、 一応国連憲章に定められている正規の手続きもまるでダダッ子のように拒否、 もし第三国が同じようなマネをしたら“世界の警察”アメリカは 口角泡を撒き散らし、拳を振り上げて批判するんだろうな、きっと。 フセインを擁護するつもりも、何事も交渉で解決を、などと きれいごとをのたまうつもりも何もない。 本当に彼奴がNYのテロと関わっているのなら制裁を加えたらいいし、 正直言うと「イラクなんかよりもっとおかしな国が日本の隣にあるだろ、 そっち先に叩いてくれよ」という気持ちもあったりする。 ただ今回のように、自分とこだけの正義を振りかざして首都空爆、 という手段に出たことは本当にいかがなものか。 アメリカがイラクを攻撃した最大の大義名分は、 「大量破壊兵器を隠し持っていて、再三の要請にもかかわらず それを差し出さないから」。 だが、中東にあるアメリカの庇護国イスラエルが、核兵器、化学兵器を含めた アメリカの言うところの“大量破壊兵器”を保有しているのは周知の事実である。 それに「大量破壊兵器がある」という主張は未だ単にアメリカが声高に叫んでいるだけであって、 実際に現物が発見されたわけでも、その存在が確認されたわけでもない。 小学生でも分かるこんな単純な矛盾構造を抱えて、 アメリカは一体どこへ向かおうというのだろうか。 それらの事情に対する積年の不満、および宗教観念も作用し、 イラク近隣のアラブ諸国にしても、公式には反イラクと言い、 今回のアメリカの軍事行動に協力してさえいても、 心情的には当然それ以上に反米感情が強いわけで、それらを含めて、 アメリカは作らなくてもいい敵を多く産み出したことだろう。 咎人だけでなく何の罪もない市民が死んでいくさま、 子を失う親が、親を失う子が生まれていくさまを見るのは、 本当に気分が悪い。 2003年3月19日(水) 「NOVAうさぎは素直に面白い」 NOVAうさぎリミックス、こりゃおもろい。 ムネオハウスの次はこんなムーヴメントが起きていたのね。 CMも秀逸だしね、あれは。 2003年3月18日(火) 「沖縄人にとっての月見」 取材で沖縄出身のバンド、BEGINに会ってきた。 彼らの話を聞いていて、一つ驚いたことがあった。 沖縄では、“花見”をする代わりに、“月見”をする風習が強くある、ということだ。 かれこれ5回ほど沖縄には足を運んでいるが、 寡聞にしてこれは初耳だった。 たとえば、彼らが沖縄のある小学校でコンサートをしていた時のこと。 学校のある職員が彼らのところにやってきて、 「今日はできたら早めに切り上げて帰ってなぁ」と言った。 なぜ?と問い返したところ、 「今日は十三夜、月見に帰らないといけないから」という答えが返ってきたらしい。 しかも上にあるように、沖縄では十三夜での月見が好まれるらしい。 満月は十五夜なので、十三夜はいわば満月一歩手前といったところ。 沖縄民謡には、“女は十七、八がよい、月も十三夜がよい” といった意味のことを謡っているものがあるらしく、 何事も完璧な形ではない、成熟しきっていないほどほどのものが素晴らしい、 といった考え方を沖縄の人たちはするようだ。 女の年齢に関する考察はおいといて。 話は少し変わる。 言語の成り立ち、ヴォキャブラリーには、 その国の自然環境というものが大いに関係している。 古来より日本は色とりどりの四季が美しい国、 日本語にはインド=ヨーロッパ語族の言語には存在しない、 四季があるがゆえに発生した、 風流や情緒などの季節感を表す単語や言葉遣いがたくさんある。 もともと言葉とは、生きている中で感じる心の動きや思いを 表現するために産まれてきたもの、 生きている環境が違えばその性質もまた違って、至極当然なのである。 語彙だけなく、言語の語順というものにも自然環境は関わっている。 たとえば日本語は主語の後に修飾語や目的語などがきて、 最後に述語、動詞がくる。 つまり結論は文章の最後になって明らかになる、 いわば“あいまいな”言語といえる。 対してご存知のように、英米語は主語の直後に述語が続く。 結論を初めに言ってしまう、否定か肯定かも文頭に意思表示をしてしまう、 “はっきりした”言葉なのである。 このあたりは、その言語を使う人たちの国民性というものに 大きな影響を及ぼすことでもあるのだが、それはまた別の機会に? これは日本には“春”と“秋”が存在しているからだ、という説がある。 英語にも春、秋を意味する単語があるように、 もちろんヨーロッパやアメリカにも四季はあるにはあるのだが、 その分かれ目は日本ほどはっきりとはしていないし、 夏でも冬でもない、暑くも寒くもないこの曖昧な時期は、 期間的にもごく短いのである。 他の大陸に目を転じても、雨季と乾季にしか分かれていない地域や、 熱帯あるいは寒帯などが多く、 日本ほどバランスよい四季を持っている国は本当に少ない。 ここで話は沖縄に戻るのだが、南北に長い日本の国土において、 沖縄は本州とはまったく違う気候風土を持っている。 そもそもの沖縄の言葉、ウチナー語は、 本土のもの、いわゆる大和ことばとは大きく異なるが、 それも気候などの自然環境が大きく違うことを鑑みれば、 素直に合点がいくというものだ。 我々本州に住む人間にとっては、 長い冬を乗り越えて、待ちに待った春の到来には自然に心が躍り、 桜でも見ながら皆で集い騒ごうか、という気分にもなろうが、 寒い冬が訪れることがない沖縄においては、 花見をしようという気持ちが沸き起こらないことも当然なのかも知れない。 その代わり、といっては何だが、 暑く長い夜を少しでも心豊かに過ごすため、 月見という慣例行事が広く行われているのだと思う。 いつも思うことだが、 自分の知らない価値観に接した瞬間というのは大事にしたいものだ。 2003年3月16日(日) 「『爆笑オンエアバトル・大阪大会』の罪」 「爆笑オンエアバトル」(NHK)を観たよ。 この番組は、漫才やコントをやるお笑い芸人たちが出演し、 それを会場のお客審査員が評価するというもの。 先週からチャンピオン大会が始まった。 先週、今週と2回にかけて20組の中から10組に絞り、 来週、10組の中からチャンピオンを決める。 今回の予選第2回は福岡で行われ、 その審査結果はまあ概ね順当かなという気がしたのだが、 先週の予選第1回、大阪大会は酷かった。 お笑い芸人たちの地理的分布としては、大きく分けると 大阪圏、東京圏、それ以外と、3つを挙げることができると思う。 この中で、大阪圏というのはお笑いに関しては非常に特殊な文化、というか 認識が存在している地であり、 その特殊な地、大阪でコンテスト形式のお笑い番組を催すことは実は、 大阪以外の芸人たちにとってとても不公平なことなのだ。 関西人の多くは、標準語(東京弁)をあまり好まない傾向にある。 とりわけ“お笑い”というフィールドにおいては、 上方こそ絶対唯一と信じ、 標準語でとりなされる漫才の存在というものを認めないという人も少なくない。 もちろんお笑いを本当に心から好きな人は、その範疇に含まれるものではないのだが、 そうではない、「やっぱお笑いなら大阪ちゃうの〜」というような 中途半端にお笑い人種プライドを持っているような輩にそういうタイプは多い。 どちらにせよ、そういう土地柄の大阪で芸を披露しなければいけない 関東および地方の芸人たちは不幸である。 特に今大阪には、「baseよしもと」という、 吉本興業の若手たちが根城としている小屋があるのだが、 そこの前では女子中高生が出待ち、入り待ち当たり前、 ともすればネタ中にも黄色い声援が飛び出すという、 ジャニーズのアイドルかこいつらは、というような群がりよう、 一種の無法地帯と化しているような節もあるのだ。 そんな各種条件の中行われた「オンバト大阪予選」、 予想通りというか案の定というか、前述のbaseよしもと所属の芸人、 ビッキーズと$10が、客観的に観てその出来を遥かに上回るポイントを勝ち得て、 決勝に進出していった。 ご本人たちには責任がなく、非常に気の毒な話であるが、これはよくない。 この番組はレギュラーの放送時にも、札幌や広島、名古屋などでよく地方大会をやっているのだが、 どうしてチャンピオン大会予選のような重要なイベントを地方ではなく、大阪で開いたのだろう? 同じテレビ人としてそこには大きな疑問を感じる。 「爆笑オンエアバトル」は、 知名度は低いが実力はある若手芸人たちが出演することができる、 数少ない全国ネットの番組。 演芸番組が少なくなった今の時代、とても貴重な良番組なのである。 しかも素人の方たちを審査員に据えたコンテストという形を取る以上、 ぜひとも不公平感の出ないような舵取りを期待したい。 2003年3月15日(土) 「サザエさんちは複雑怪奇?」 アニメ「サザエさん」の家庭ってよく考えるとかなり複雑でないかい。 主人公サザエさんは嫁に行っており苗字もフグ田なのだが、 なぜか実家の磯野家でマスオともども同居。 まずこの時点で、現実社会にモデルケースはあまりないよな。 奥さんの実家の近くに住居を構える、という場合はよく聞くけど。 そして長姉サザエと、弟・カツオと妹・ワカメとの離れ過ぎた年の差。 カツオとは13歳前後、ワカメとは15歳前後離れていると思われる。 俺は子供の頃、サザエ、カツオ、ワカメ、タラちゃんがみんな兄弟だと思っていた。 おそらく観ている大多数の子供がそう思い込んでいたことだろう。 あの家庭の構成は、子供には理解するのは難し過ぎる。 このような状況から、サザエさんはひょっとしたら波平の前妻もしくは舟の前夫の連れ子か? という推論が私には導き出されるが、どうなのだろうか。 さらに脇役ではあるが、カツオの同級生の中島、彼はなぜかおじいちゃんと二人暮しである。 こいつはかなりワケアリだ。想像するのも悲し過ぎる。 その昔、戦後復興に燃えている時代に、 “ごくありふれた平凡な市民の家庭を舞台にほのぼのとして物語を描き出す” というコンセプトを持って産声を上げたであろう(予想)「サザエさん」、 なぜもっと一般的な家庭にしなかったのだ? この特殊な家族構成を選んだ長谷川町子には一体どんな思惑があったのだろう。 恐るべし、国民的人気アニメ。 2003年3月13日(木) 「最近イイCM、ヨクナイCM」 テレビCMの話。 最近、宣伝対象の商品がドカーンと画面の真ん中付近に乗りっぱなしのCMが多い。 出演タレントの顔の上であろうが何であろうが全くお構いなし。 あれがすごく嫌いだ。 代理店および代理店に騙されているスポンサーの言い分としては、 「視聴者が心理的に見たいと思うものの上に何かが乗っていれば、必然的にそこに目がいく」 ということのようだが、それは大間違い。 目がいっているのはその商品の下にあるであろう、人の顔であり、何某である。 わしは今ここに、あの手法に宣伝効果は全くないと断言してしまう。 かえってマイナスであると言っておく。 恐らく2〜3年ほど前の、テリー伊藤とか真木蔵人とか酒井若菜とかが出てた 「麒麟 一番絞り」のCMあたりから広まった風潮だと思うが、 本当にいただけないと思う今日この頃。 反対に今お気に入りのCMは、ナイキ。 多分日本の放送ではまだ流れていないヴァージョンだと思うが、 1分ほどの長尺もので、単調な打楽器の音が単調なリズムで鳴り響く後ろ、 ジェイソン・キッドやスティーヴ・ナッシュなどのNBAプレイヤー、 そしてストリート・プレイヤーたちが体育館とストリート・コートを舞台に 1on1や3on3を繰り広げている。 撮影はもちろんフィルム、画面はひたすら暗いモノトーン。 昔からナイキはシンプルでかっこいいCM作ってたけど、 今回のはそれに輪をかけてまたカッコイイ。 またリーボックやアディダスも真似するんちゃうかな。 ちなみにこのCM、俺はスカパーのNBA中継で見てます。 もう一つ、アメリカもので面白いCMが、ゲータレード。 契約プレイヤーであるマイケル・ジョーダンが出てくるんだけど、 VFXを駆使して、現在のジョーダンと新人時代のジョーダンが1on1をするという内容。 結果は現在のジョーダンが老獪さを武器に勝利を収め、 今度は大学生時代のジョーダンが勝負を挑みに来るというオチ。 CMとかタイトルVTRとかミュージック・ヴィデオとかアイ・キャッチャーとか映画とかは やっぱし米国産がかっちょいいね…。 2003年3月10日(月) 「サイトオープンにつきまして、さらに映画『黒い家』に暴言、そしてついでに『自然』とは何ぞや?」 本日、めでたくこのサイトが立ち上がった。はず。 初回記念ということで、景気良く二本立ての編集長雑記、 長文お許しください。 まずは職業柄、ということもあるので、最近観た映画について書きます。 ちなみに作品は貴志祐介原作「黒い家」。 これから読む、あるいは観るという方、多少のネタバレありますので、要注意。 映画「黒い家」をテレビで視聴。 なんとなく予感はしていたが、案の定ブッとんだ駄作であった。 何よりも「黒い家」というタイトルが表しているコンセプトを全く体現していない。 見始めたときから駄作の臭いがプンプン、主人公・若槻のキャラも全く違うし、 演出全般が妙なコメディタッチ。 あとで森田芳光監督と知っていささか驚いたが、 彼は原作を果たして読んだのだろうか?という 現実離れしたバカバカしい疑問が頭に浮かんでしまうほど、 原作が放つ圧倒的なまでの心理的恐怖感は、 そこには全く存在してはいなかった。 足しげく保険会社に通い詰める菰田の圧迫感、 伏線となるべく事実が次々に判明していく時の視聴者へのアピール、 刻一刻と移り行く若槻の心理描写などなど、 それらの全てがカメラワークも含めた陳腐な演出によって台無しもいいとこ。 共同テレビ コメディ班演出かと思ったぜ。 そしてさらに重大なミステイクは、若槻が菰田邸に自分の彼女を救出に行くシーンと、 最後の会社内での幸子との戦いのシーンで、 臨場感を出すためだろうがハンディカメラを揺らし過ぎ、 そしてこれが決定的なのだが、絶対光量が足りなさ過ぎ、 戦いの最中ずっと画面がほぼ真っ暗で、何にも見えない。 “そこで何が行われているのか”という最も大事なところが 視聴者に全く伝わらないのである。 まあこの点については、映画というものはもともと暗い劇場内で観ることを前提としているため、 全体的に暗めに作られているということはあるのだが、 それを放送用にコンヴァートする時に輝度を上げることを忘れたのかも知れないが、どうだろうか。 俺は原作を読んでいたから何とか対応できたが、 もし原作を読んでいなければストーリーを全把握できた自信はない。 演出の基本はまず伝えること。 そんなことは言われなくても分かっているはずだが、大監督。 まだ読んでいない人があればこの本、是非ご一読いただきたいのだが、 現実社会を舞台にしたホラー小説としてはまさに超一級品、 凄まじいばかりの傑作である。 それがあんなお姿になるなんて…(涙)。 俺がもし原作者なら怒り狂う。 うーん、とくもかくにも、失望。 ちなみにこの原作者・貴志祐介の別著に「青の炎」という、 これまた超ド級の大傑作があるのだが、 この作品も蜷川幸雄監督によって映画化、この春に公開される。 ちょっと不安なような、でもやっぱり楽しみな気持ちじゃ。 続いてのテーマに移る。 こんなことを感じ始めたのはいつだったっけかなあ。 俺は新聞・雑誌・書籍や街中など、 あるいはテレビなどで「自然」という単語を見つけた時、 もしくは誰かがこの単語を発音した時、恐らく人より敏感に反応する。 その言葉が自然保護や環境保全、 人と生き物の共存などといったテーマに絡んで登場した時は尚更に。 「自然」とは何ぞや、ということについてである。 あくまでも紋切り型、ステレオタイプの意見を例にとって話を進めさせてもらうが、 例えば多くの場合、人間がゴルフ場建設のために森林を伐採したり、 工場から排出された汚水を河川や海に流したり、 象牙や毛皮目的で動物を乱獲したりする行為は、 “自然に反している”という論調で語られる。 そして逆に、絶滅危惧種を保護したり、 植林によって僅かながらでも緑を増やしたり、 加工食品中の添加物をなくしたりといった行為は、 “自然の理に適っている”と見なされる。 ひねくれものの俺は、それは違うんじゃない、と思ってしまうのだ。 言うまでもないことだが、我々人間もまた、地上に生きる動物のうちの一種である。 自然の生態系の中の一員である。 この出発点は、恐らく殆どの人が異を唱えることなく理解していることと思うが、 大多数の人はここから先述のような意見を導き出してしまうように見受けられる。 だがしかし、人間も動物の一種である以上、 人間が行う行為も、アリンコが行う行為も、象が行う行為も全て「自然」なのだと俺は思うのだ。 人が住居を建設するためにブルドーザーで更地を作り、 そこに鉄筋の家を建てる。 ビーバーが巣を作るために木の枝を集めて、池の上に積み上げていく。 この2つの行為の間に何の差があるのだろうか。 あるいは、人間はその食糧を確保するために殺生をすることは無論だが、 生活のためでなく、一部の人はハンティングと称して趣味のために生き物を殺すこともする。 これと同じように、犬や猫も路上で捕まえた虫などを食べるためでなく、 弄んでいて死なせてしまうことがある。 これらを見て、前者は自然でなく、後者は自然である、と誰が言えようか。 総じて言うならば、やれ環境破壊だ、自然破壊だと言われている人間の行いも、 それは全て「自然」の行動なのである。 これを“自然ではない”と言ってしまうことの方が、 人間は他の動物とは違う特別な存在だと思っているという証だと俺は感じ、 何かこっちの方がヤバイんじゃないのかなあという気がする。 ここでは決して、「良い」「悪い」を論じているのではない。 「自然」の行動ではあってもそれが悪いことだ、と感じれば、 人間は他の動物が持っていない“理性”というツールを駆使して、 本能にあえて背く行動を選択することもできる。 そのあたりについては、また機会があれば論じてみたいと思う。 極論してしまえば、 この地球上で起こっている全ての事象が「自然」なんだろう。 |