第17回 殺人進化論 2004.11.6
死のゲームは人が死んだのかどうか、
またどのように死んだのかを確定し、解釈しようとする。
そしてそれが「自然な」死でなかった場合に
その死に対して責務を課すゲームが発動する。
このように論理的順序として責務を課すゲームは死のゲームに後続する。
この「死のゲーム」が娯楽にまで発展したのが推理小説である。
死に医学や法学が関与することによって
ますます我々の知的好奇心は刺激される。
犯人の行うトリックとそれを見破る探偵、
そしてそれらを書く著者の手腕に心踊らすのである。
とりあえず、「誰でもいいから殺しちまえ!」
というのが推理作家の本心ではないだろうか。
そうなるともはや推理作家ではなく殺人作家である(あな、恐ろしや)。
話は変わるが、推理小説の起源はエドガー・アラン・ポーだと言われている。
ポーは怪奇な世界の破壊的な精神状態から逃れるために
推理小説を開発したのではないか、と江戸川乱歩は述べているが、
ポーが推理小説で成し遂げたことは推理の厳密性を築き、
あるいは推理を論理や数学のごとくしたことにある(余談であるが)。
普通、文学では追体験が可能である。
あの感情移入というやつね。
しかし推理小説では自分が殺人者になるとか、
殺されてしまう役になりきるなんてしないよな?
殺人なんて事態は誰にとっても所詮他人事、
殺人という異常な事態を日常に転じて
誰にも責任を持たせないようにしてしまった、
それこそが推理小説なのである。
そしてニュースレポートを読むようなそんな仕組みこそが
推理小説に現代的な意味を与え、よく読まれていることの理由なのだ。
推理小説はあくまで事件の「トリック」がストーリーなので、
一見主人公と思われる刑事や探偵もトリックに振り回されっぱなしである。
このトリックのために同じ人間的存在を主題にしてしまえば
事件が成立しないから様々な人物が登場することになる。
しかもこの多様な人物は操作性によって動かされているから
存在の質など意味を持たない。
もうお分かりかと思うが、
推理小説のテーマは純文学のように人間存在の本質の追求ではなく、
むしろ存在と切り離されるものがメインになっている。
このようにして肉付けされた設定は質的には並列化しているから、
読者にとって感性を刺激するのはパターン(=トリックの形式)ということになる。
一般的に形式には理性が対応する。
が、推理小説においてはパターン(形式)が感性を刺激するのである。
こういう観点からすると、推理小説のトリックは常にもっと興味を呼び起こすもの、
新奇なもの、でなければならない。
なるほど、こうして殺人トリックは進化していくものなのであるな。
このように考えていくとマス・メディアが現出させる差異は
推理小説の人殺しの多様化と同じレベルであるのだから、
テレビで残虐怪奇な事件が日々垂れ流されているのも何の不思議でもない。
むしろそのような事件を起こしてしまった人たちは
違った意味で進化した人と言えるだろう。
最後に一言。
次にどんな斬新な事件を起こしてくれるか期待しているよ。
すばらしく進化した姿を見せてくれたまえ、諸君(ぇ?)。
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