海洋空間壊死家族2



第9回

空中庭園   2003.6.3



初めて人間が禁を破って空を見上げたとき
空は突き抜けて

中略

やがて言葉の通じなくなった二人は
網膜や鼓膜や・・体の膜に張りつけた
記憶の焦点を結び
涙を流して
地に生える一つの木になった
分からなくても通じなくても
同じものを見て同じものを食べる
一つの丘に生える樟の梢になったそうな



国立国語研究所という機関がある。
確かマジンガーZが出動する秘密基地の施設の所有団体もそんな名称の所だったと思うのだがあまり自信はない。
最近世間で噂の白装束の団体も、「研究所」らしいからそういう意味でも研究所自体の株が下がっていて、この機関の響きをいっそうもの悲しくしている。
字面からいうと、まず、新型右翼かな?とも思うが、国立とあるから、そういうものに日本国が表だってカネだしちゃまずいわな、と思い直して、じゃあ、はて、文部省の天下り専用第三セクターかな?という結論にいたるのだが、実際のところ何なのかよく調べていないのでよく分からない。
だいたい、国語というものが果たして国を挙げての研究の対象になるのか、という根元的疑問がまずそこにある。
普段日常的に使う「国語」という意味では、例えば、お風呂に入ったとき、からだのどこから洗い始めるか、ちなみに私は左手からなのであるが、それはともかく、または、湯船には果たして何秒間浸かるのが正しいのかなどなど、研究する「おふろ」研究所とか、箸のあげさげ、水の飲み方諸々をおはようからおやすみまで監視する「食事」研究所とか、そういう、研究に値しないパーソナルな個人個人の局部、局所的趣味嗜好を研究して一体どうなるのか・・という疑問が沸いてくる。
よく「最近の若者の言葉が乱れてきている!」なんて人たちがいるけど、そういう人は平安時代、万葉時代、もっというと原始時代の言葉を研究してそれをしゃべってれば気がすむのではないか、と、そういう意味では、国語研究所も活躍の場があるのかな、とも思う。
ただ、この間、新聞で、おお、と偶然見かけた、カタカナ言語の、つまり、外来語の研究なんか見てみたら、結構おもしろい、私のような人間の興味をひくこと、つまるところ、社会的にはどうでもいいことを一生懸命、日がな一日研究しているようなのである。

日本というクニは、おもしろいというのか、ある意味便利な国で、カタカナという非日常文字を用いて、普通なら、訳すのに頭と時間のかかる外来の単語の消化というものを、発音はほぼそのままに、表示を変えて意味の理解で解決するという方法で、簡潔かつ頻繁に行なっている国である。
フォークとかハンガーとか、明確に日本語で対置される言葉のないものというのはぐるっと見回してみてもホント多い。
それとは逆に、例えば、中国なんかは、テレビは電視台とか、スポーツセンターは体育中心とか、何やらやりくりして、自分の国の言語に変換消化しようと日々努力している国である。
たまに、コカコーラを可口可耒なんて、無理に音と意味で合わせて、なんだか無気味な感じになってしまっている例もあるが、その努力はほほえましい。
アメリカなんかでも、「禅」とか「プリンセスもののーけ」とか「忍者」とか、自国にうまく説明する概念のないものだけ音を保存して、あとは適当に自国語でまかなっちゃうという感じで、まああんまり知らないけど、たいがいの国は外来語を自国語に翻訳して取り込むと思うのだ。
特に中国、アメリカの場合、共通するのは、その中華思想的、人をコバカにした態度であるので、その辺も微妙に影響しているのであらうが、何にせよ、それらと比較したとき、日本人の単語輸入業務における安易で怠惰な態度にもあきれるばかりである。

しかし、ここで論理はキビスをかえして急旋回するが、それでは、何でもかんでも自国流に変換、かつ消化してしまえばそれで幸せか、というと事態はそれほど、簡単ではない。
例えば、ビールはビールで良かったなあと心底思う。
麦酒だったらここまでおいしいと思えないはずである。ビールだから1リットルでも3リットルでも飲み下せるけど、麦の酒、大日本麦酒製造所!なんていわれても、それだけ飲める自信はない。
3デシリットルっていったいどれくらいか、今では見当もつかないけど、そんなビーカーやフラスコで飲むようなみみっこちい酒の雰囲気が濃厚である。
ケンタッキーフライドチキンなんてのも、健沢吉釜揚駑鳥筋、あるいは鳥のアメリカ(米)揚げにならなくて当然であり、偽四手匙で食べる伊風湯乾細麺スパゲテーなんておいしくも何ともないだろうと思う。
反対に、アメリカや中国の方々は、外来の言葉(特に食べ物)をそのまま直接に取り込むことが少ない。
ジャーマンポテトやフレンチサンドが果たしていかなるものなのか、私は明確に答える意志と知識を持たないが、もとの名前は違うはずで、例えば、ドイツ人がジャーマンポテトをジャーマンポテトとは言わないと思うのだ。
彼らは、よその国の文化、実体を尊敬するということを知らないから、見たままに、いくらかの侮蔑を込めて、ジャーマンポテトと呼んだりジャパニーズ寿司なんて物珍しがって、挙げ句の果てにマヨネーズを塗りたくった醤油びたしの寿司を食べたりするのである。
しかし彼らは気づいてないけど、そういう、本来のものの個性を無視した名義変更によって、精神衛生上、いくらか損をしているというのは大げさな話ではない。
例えば、がり(寿司屋の)はアメリカでジンジャーだけど、日本人が逆の立場だったらそのまま、ガリ・しょうがで通していたと思うのだ。
しょうゆもソイソースなんて人を馬鹿にした名前にはならなかったはずだ。
そして、寿司を食べる場において、ジンジャーを食べるよりは、ガリ・しょうがを食べたほうが、ほんの少しではあっても心の畝が豊かに耕されるという確信がある。
そういう微妙な心のあやというのか、機微というのか、感じ取れる豊かな感性というものは、日本人として大切にしていきたい一つの継承文化である、とこのように私常常思っているわけですね。

そして、本題に入ってくるのだが、さっきの国語研究所が何をしているか、というと、まずひとつに、氾濫する外来語の増殖を抑制し、正しい日本語を社会的に構築するということを目的としてもっているようである。
つまり、具体的には、外来語の言い換え語を考えて発表するという、まこと、平和ボケ的な作業を行なっている機関、というか施設なわけである。
ここまで聞くと、なんだか、このゴク潰し的発想の研究所に、短気な人間はすでに極私的な遺憾の意を持ってしまいそうな雰囲気があるが、その言い換えの一覧表というものを見て、私はホッとした。
と同時に、やっちゃえやっちゃえ!という尻馬に乗るようなアサマシイ心もやがて沸き起こってきた。
確かになんだか分からない外来語というのが世間にあふれているなあ、という実感はここ数年というか、10年くらい前からある気はする。
私にとっての外来語ファーストコンタクトは確か、コンセンサスという言葉だった気がする。
それ以前にももちろん、他のカタカナ言語を見たり聞いたり使ったりしてはいたが、それを外来語として意識していなかった。
たとえば、これは外来語というのとはちょっと違うのかも知れないけど、スクランブルダッシュとか、電磁スパークとかこういう言葉の意味というのは、全然分からないまま聞いていて使っていて平気であった気がする。
または、スニーカーブルースなんて唄も今考えると、何なんだ、という驚愕に満ちた意味不明感というものもあるが、その時代には普通に聴いて歌っていたのである。
うちの子供が唄うたうのなんか見てても、最近の歌は英語の詩が多いから、大変だなあと聴いていると、思いのほか、あっさりと言語処理・無事通過しており、まあそんなもんだったなあという感じがする。
ところがここで、齢を重ねて、自意識が芽生えて、いろいろな知識が増えてくると、言葉を知りたい、知らないのは恥ずかしいというような感覚が若い体にみなぎってくる。
そんな四齢幼虫のような未熟な時代の私にとって、テレビで聴いたコンセンサスという言葉は衝撃であって、今でも我が心の写真集に残る名場面として記憶されている。
それをしゃべっていたのは誰だか忘れたが、国会答弁かなんかの時の政治家で、その頃から、役人、政治家系を馬鹿にする心というものの初期形態はあったから、その人がしゃべる意味不明の、しかも当然のように使われた「コンセンサス」が、嫉妬と焦燥と嫌悪の混じり合った複雑な心情を、私をして起こらしめたのであった。
そして、時代は流れて、成虫となった現在でも、テレビや新聞で、カタカナ言葉が当然のように、常識のように使われているのを見ると、やや斜に構えた卑屈な心が隆起し出して、てめえ、ちゃんと一般的にわかる言葉使えや!それはちゃんとわかって使ってんだろーな!?みんな知ってると思ってんのか?わかるように言ってもらえるかな?という、あからさまにデクレッシェンドな怒りというものが、西方からきたる鰯雲のように沸きいずる心地がして、気もそぞろになるというようなことがたまに、ごくたまにある。
その恨みというのか仕返しというのか、意趣がえしというのか、つまり単なる逆恨みなのか、国立国語研究所というところは、そういう抑圧され欝屈した私の代理に、巨悪を、カタカナ軍団を懲らしめてくれる機関なのか!ということで、ぐぐっと親近感を増しつつ、どれどれ・・と嗜虐的悦びに満たされながらその報告書のごときものを読み進めると、おや?というのか、あらら?というのか、これまたデクレッシェンドな尻すぼみの、悦びのスソ野は砂漠にしみ込む水のように消えていってしまったのである。

まずその言い換えの対象語、例えば、アジェンダとか、サーベイランスなんて、どんなときに使われるのかも分からない単語が含まれており、その取り上げる一般的視点、姿勢に関しては好意がもてる。
しかし、その言い換え語のセンスが、やっぱり、第三セクター・・やっぱり独立行政法人・・・というあきらめのセンスなのである。
仮面ライダーV3で、ピンチに助けに来てくれたのが、分かっちゃいたけど顔の下半分が丸見えのライダーマンだった時、あるいは、今日のシチュエーションはクワガッタンかなあと期待していたけど、またまたやっぱりドタバッタンだった、あるいは、今日は一緒にお泊りかなあと思って奮発していたら、やっぱり門限で帰っちゃった、というような既視状況的急旋回型の落胆、つまり、やっぱりタイプのあきらめの境地に近い感覚である。
役人風情に期待したわたしがアホだったのである。
何はともかく、いざや見たてまつらん。

アナリスト・・「分析家」
バリアフリー・・「障壁なし」
うーん、もうちょっと別の言い方はないのか。
「障壁のない家」とパッと言われたら、トイレにも風呂にも寝室にも、壁、仕切りの無い、偏執狂気味の徒広いワンルームの一戸建て?と一瞬思ってしまうのは私だけなのだろうか。
ライフサイクル・・「生涯課程」
逆に意味がわかりにくくなっている気がする。課程ってそういう意味か?
インフォームドコンセント・・「納得診療、説明と同意」
意味も響きもアメリカの対イラク軍事作戦名(衝撃と恐怖)に似ている気がする。
あるいは、なんか悪いことを企んでる詐欺師、あるいは、終電前の女を必死になって口説いている男の捨て身の説得のような雰囲気だ。
「明朗会計、請求と領収」なんていう酒の場での、酔っ払いだから何してもわかんねだろ、という火事場ドロボウ的会計にも通じてくるイカガワシサが感じられるという点では、日本医療の実体を表わしているのかも知れない。
アイドリングストップ・・「停車時エンジン停止」
いま流行りの、声に出して読みたい日本語ですな。
たぶん、会話で「停車時エンジン停止してる?」と訊かれてスッと意味がわかるのは、日本史上、聖徳太子だけであると推測される。

こんなわけで、紹介するのもおぞましい内容なのであるが、しかしその提出方法というのか、その展開のしかた、言いたくなかったけどカタカナで言ってしまうと、プレゼンもひどいものなのである。
まず、その個別の外来語の一般民間人への普及の度合いというものを示す数値に「理解度」なるものを表示しているのだが、それが、なんとも度しがたく、理解しがたいものなのである。
0から3までの数値でそれは表わされており、その注意書きによると、「0」は4人のうち1人未満しかその外来語を知らなかった、以下「1」は4人に2人未満・・「3」は4人のうち3人以上が知っていた、という意味で使われているということである。
これを読んですぐ理解できる人は、本当に頭の良い人か、あるいは、本物の役人のどちらかである。
「国語」を「研究」した人間の国語能力なんてまあ良くてこんなものだ。
こういう意味の分からない文章を書く人間をワガ国では一般にアホと言うのである。
その表わす数字と意味をなす数値が微妙にずれているというところが、もうすでにその精神、論理機構が破綻していることを示しているが、それより、2人未満てあんた、1人以外ありえないだろ。
さらに1人未満て、いったい誰なんだ。
まあ、そのアンケート調査は対象が4人だったということはないはずだから、それはともかく、しかし、それならば、例えば、普通に%で表わせば良かったのではないかという疑問がフとその鎌首をもたげるのである。
そんな、まどろっこしい注意書きなんか書かいでも、100分率、10割表示でも一般人の「理解度」に対する理解は、十分、彼らの基準数値、理解度「3」になると思うのである。
後々使う資料としてもそのほうが優れていうことは歴然としており、それをわざわざ0123というアート引っ越しセンターのような簡単な数字を使うというのが理解不能である。0から3という数値にどうしてもしたい、しなくてはならない、あるいはその数値を使うことによって、何か途方もないクワダテを企んでいる、カバラの数秘をあやつる秘密結社の研究員なんてのがそこに存在するのであろうか。
それとも、片手以上はいっぱいという、原住民の数秘に関する誤った常識が研究員の頭にあったのか、それはよくわからないが、つまり、直感的に思うに、おまえら、人をバカにしてるだろ、というのが私の素直な感想である。
「0から3までだったらフツーの人々にも分かるんじゃないかなー?」という、NHKの教育番組の科学の先生にも似た、ヒトを馬鹿にした、自身の活動範囲外における一般的数学状況に関する見下した認識、態度というものが、そこからくっきりと浮かび上がってくる。
この辺り、最近卑屈かなあ・・とも思うのだけど、心の激昂はとどめる術を知らず、欺瞞に満ちた、日本社会の腐った部分、特に役人的社会に対する我が秘めたる怒りの炎は、紺碧の明けの空を耿耿と焦がさんとしているのである。





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