海洋空間壊死家族2



第81回

パドアスキオッパ  2006.4.25




昨日まで表裏一体の
影のごときおのれの細胞質が
地の底のうめきとともに
離反し逆流する

彼のアレルギウスの
驚愕の裏切りは大勢を占めてこそ
わが体液はわがものにならざるなれ
おのが体躯いづくにかあらん
彼のアレルギウスの群れ
アレルギイよ



このいかにもギリシア神話的な、森に棲む絶倫の獣人アレルギウスの複数形:アレルギーは、医学史的にはケッコウな古参らしく、20世紀初頭には中欧圏に於いて頻繁に使い慣わされていた模様である。
言うまでもなくこれは近代医学が成立して「発見」された病気であって、たとえば老衰の中にガンや心筋梗塞や脳卒中が「発見」されていく過程のような、科学医学の発展の歴史のヒトコマ、つまり太古の昔からそういう免疫過敏反応というのは綿々としてあったのだろうなというのは実感的に想像に難くない。
特に日本でも春の初めに花嵐とともにやってくる疫病の類も実はこのアレルギー反応ではなかったかと推測するのである。
ハナエヤミともいわれるこの春先の微熱せきハナのど炎症は花粉症のそれにまったく相似しており、さらに言うとこの免疫抗体反応の対応しきれないところが実存的な「病気」といわれるものを構成していると言っても過言ではないのである。

まあそんな今昔の病理考察はともかく、このワタクシ、花粉症とは長い付き合いをしている。
あれは忘れもしない、中学2年生の春。
前の席に座ったS田Y一郎君の花粉症を見て気分的に鼻ジルおよび目の痒ミ等がシャーマニックに憑依した午後3時というのが公式の花粉症罹患の始まりを告げるベルトールズだったのである。
以来20年ほどのあいだ春の2〜3ヶ月というのは心技体的に非常につらい季節となってわが春の愉しみを蝕んで来た。
とくに3月末から4月初頭にかけては1年のうち特に重大なイベントである花見があるのであるからして、その屋外分子レベル空間移動停滞においてハザードを引き起す、天をも恐れぬ国賊的所業を奴らは働いてきたのである。
ある時は呼吸困難による不眠、ある時は気管支の荒廃による喀血、などなど、喘息の苦しみにも似た、あなどれぬ試練の数々を以ってそのシンドロームの存在を誇示してきたわけである。
ソバやピーナッツアレルギーで死ぬ人がいるがさもありなん、花粉症で死んでいる人間というのも統計に表れていないだけで、花粉アナフィキラシーというものが全国規模で複数存在するのではないか。

西行法師が花の下にて死なんと言っているがあれはつまるところ花粉症だったのではないかと思う。
花粉症でぐちゃぐちゃになりながら花見をして、酒なんか飲んで仰向けに寝転んでいると、このまま死んでしまいたい・・桜の花弁が風に吹かれるのと同時に消えてなくなってしまいたい・・という慨嘆は法師や安吾でなくともふと心をよぎる春の日の縁側である。
春や桜は死を連想させるのに比較的易きものだけれど花粉症との相須効果は尋常ではなく、そのアレルギー症状はヒトの命を奪う還元酵素のような働きをするのである。

アレルギーといえば花粉症だけではなくて世の中には様々なアレルギーといわれるものがある。
ソバやピーナツはもちろん、犬や猫やダニや上司や、あるいは異性もアレルゲンになったりして、そうなってくるともう肉体というよりも精神方面でのアレルゲン化が甚だしいのであるが、特殊な例としては、果物アレルギーというのもある。
私はあるいたずらというか意地悪をしてから、呪いがかかったように果物アレルギーになってしまい、おいしい桃やパイナップルやマンゴーなどが食べられない。
とくにあの濃厚なジュース成分を含んだ、破壊神的酵素ビタミンを持った南方系果物は鬼門である。
食べると口の中じゅうが水泡だらけになって、鼻腔から涙腺、内耳外耳鼓膜にいたるまでかゆいかゆい&いたいいたいのえらいことになってしまうのである。
これは精神の呵責から肉体的アレルギーを引き起こしたドミノ倒し型としてめづらしい症例である。

また、電機アレルギーというのもある。
前前からコタツや電気カーペットで寝るとしんどくなる、風邪を引いてしまう体質だったが、まあそれは世間の常識の範囲で当然のことと思っていた。
しかしヨーク考えてみると夏も冬もエアコンつけて寝ると死んでしまうし、電気毛布はもちろん、静電気の起きるアクリル毛布や化繊シーツで寝ても体中がきしんで悲鳴を上げて数日寝こんでしまうのである。
これなーんでかと考えてみたら共通するのは電気およびそこから派生する電磁波が原因ではないかという気がしてきた。
世の中には金属アレルギーなんかもあることであるからイオンや電子レベルでの知覚過敏というのはありうる話なのである。

とまああれこれアレルギズムの塊として生きてきたというのが今回の報告の主眼なのであるが、ところがである。
年を重ね、なんと30歳を過ぎて、精神のブレーキハンドルの遊びが増えるにしたごうて(ネジが緩んで)、最近ひとつ気づいたことがある。

それはこの免疫反応も含めて人間の体の順精神性とでもいうべきコントロール可能な客観的理性ドグマである。

若い時分には、アレルゲンという襲い来る異星人がごとき突発免疫発動衝動を受信したワガ受容体群はまるで拡声器を通すようにして、世間に対してポウズをとるように過大に三里塚反応してしまっていたと思うのである。
それはまさに青春の日々の自己破壊と世界破壊、自己否定と他己否定を拠り所に自らを光らせようとしたあの暗黒の日々にそぐわしいものであった。
つまり花粉症反応が世間や親や常識へのアンチテーゼとなってナトリウムもマグネシウムもビックリの爆裂ホモジナイザー化していたような気がするのである。

そして今思うにこの全面白眼視の全方位敵視、遠攻近攻のアレルゲン化学反応というものが、歳相応に彼岸のかなたへとひいていき、しかもなぜか自らの次世代の生命体に重なってくる。
早い話、自分の子供というのがこの花粉症の免疫抗原の本質にまったく似ていると思うのである。
分かりやすく言うなら、新しく子供アレルギーシンドロームに罹患したということである。

世間なんつうのはまだ甘ちょろいもので、こちらが拗ねてみたり押したり引いたりすればそれなりに思い通りにいくものである。
しかし子供というのはもう、全面的に、無茶な存在である。
どんな常識も論理もモテナシも怒りも通用しない。
抗体を作れば作るほどその子供の精神構造は饒舌になっていってしまい、拍車は転がり留まるところを知らない。
まったく花粉症のアレルゲンのようなもので容赦ないのである。

そういう理屈の通用しない者としばらく付き合っていると、なんだか自分から幽体離脱した第2第3の人格というものが次第に現われつきまとい、その浮遊人格が自らの心と体の動きというものをまったく信じがたいほどに掣肘してくれるのである。
これは擬態的に言っているのではなくまさに体の隅々から節々まで微妙なコントロールが効くようになってくる。
サッカーボールリフティングが急激に上手になったり、ボールコントロールやバットコントロールが木肌細かにイメージできたり、ゴミ箱シュートの確度が異常に高まったりしてくるのである。
そうこうするうちに、もう手が切れようが足が折れようが腹かっさばいて内臓がだくだく溢れ出ようがまったく気にならないという心境に達して、花粉濃度が高まろうが低まろうがまったく無心に対処できるようになってくる。
仕方がない。
なんとかなる。
という無根拠な静的イメージが花粉症の症状を緩和除去してしまうのである。
まるで闇がすべての汚点を覆い隠すという感じ。
あるいは、内臓疾患の痛みを生爪をはがして誤魔化したら感覚が麻痺してきてイイ感じになってきたという感覚にも似ている。
そしてそのナントモナイという達観的悦びは、髭剃りをしていて後ろから襲われてウッとなってもキレテナーイというような毛唐のオオゲサな悦びにも通じるものがある。

しかしそうはいってもアレルギーマーチという言葉があるように、克服しても乗り越えても次々と襲い来る新種のアレルゲンの群れは引きも切らない。
この辺もまた病理学の進行と新種の病気の発見に通じてくるものがあるようですな。
エレベーター=パルファムやサブウェイ=スプレイなど、個人の生体コントロールを超えた怒りのアレルゲンというものがまた、じわじわと世間に広がっているようなのである。





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