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第80回
操縦桿 2005.12.21
サシガメの貫いたアシナガバチを
右に指し掲げるか
左に薙ぎはらうか
双眼鏡にて盗み見た
気体の代替物が
晧い旗指物を順繰りにする
オトコの感覚として、自分よりも大きいものを操縦運転するという行為が、ある意味、快楽を生み出す根源となっている、というのは一般的に肯んじられる傾向である。
小さい子がクレーンやダンプに興奮し、マジンガーや28号にあこがれるのもそういう巨体コントロール願望から生じているのはほぼ間違いないだろう。
実際田舎に行って稲刈りコンバインに乗ってる時とか、中大型トラック借りてきて広口径のハンドルを目いっぱい回す時ってホントシアワセを感じるもんなー。
乗り物に限らず、それは実生活の行動原理をも束縛していて、男は「支配操作」を旨として、女は「所有」を旨として生きているというのは、三つ子の魂百までの普遍の真理の証明なワケである。
んで、大人になってその操縦願望の達成のハケ口は、その道のプロ、あるいは松本零士にならない限り、つまり一般男子は「クルマの運転」というもので己の旧来の欲望の処理をしているのが大半であるといっても過言ではない。
クルマというものはたしかに目的別に見ると「移動」が主たる目的であるようだが、たとえば、女にとっての化粧・ファッションがその本来の目的(異性神性の関心を惹起する)を離れて、何かしらの自己実現、変身願望や無責任化欲望を充足させているのと同義に、男はクルマを単なる移動手段としてではなく、その感性やステータスの主張、あるいは操縦欲の充足手段としてあてているのは間違いないのである。
だからこそというのか、そのクルマという大人のオモチャの機械的基本性能が進歩著しい発展を遂げてきたのと対称的に、直接的人間のかかわり方、つまり運転方法というのはここ300年ほど変わりばえの無い停滞性を顕わにしているのではないか、というのが今回の趣旨なのである。
アクセル・クラッチで車軸の回転をコントロールし、ブレーキで車輪の回転をコントロールし、そしてハンドルの回転で方向性を決めていく、という執拗なまでの回転への執着が実概念的クルマの運転方法であるが、その決まりきった型というものを、クルマというモノが世に生まれいでてより来し方一遍も変更なく、かたくなに忠実に墨守してきているのは、意図的な運転類型性向なのではないか。
たとえば電話はダイヤルぐるぐる式を止め、ボタンぽんぽん式に変わった。
あるいは走り高跳びは飛びこみ式からベリーロールそして背面跳びへと進化した。
それなのにクルマはいまだに足でブレーキ&手でハンドル。
果たしてそれでいいのか。
それでいいという話もあるが、めまぐるしい技術革新や文化発展、周囲の変遷現実を鑑みるにそうもいっていられないのではないかという気がするのである。
トヨタもいろんな所で「変わらないことは悪だ」といっているのにもかかわらず、運転方法に限っては何一つ目新しい変化を遂げていないのである。
たとえば家庭用ゲーム機のソフトで、車の運転をして一番になるというようなゲームがあるが、あれは両手に納まるコントローラーひとつでクルマすべてを動かしているのである。
20cm四方のコントローラーで怒涛のカーチェイスができるということは、通常の日常運転くらいあのコントローラーでできないことはないのではないか。
実際予感として十分実際の車を動かせる気がする。
そして、あれで済むならあれでいいじゃないの・・という気がしてくるのである。
特に渋滞の時なんて全身を使った運転が体の隅からスミまでばからしくなってくるので、コントローラーで済むならそれで済ませたいという気分が濃厚である。
あの為すすべもない、時間と集中力の浪費は、マリオが8−4までずっと死なずにやってるのを待つルイージの気持ちと言ったらいいのだろうか。
適当に流さないと後がつらいだけ。
あまり気を張り詰めてもいいことないわけである。
そういうときにあのハンディなコントローラーだったらずいぶん楽だろうなと思う。
だいたい、ハンドルを回転させるその動きの大きさもオオゲサである。
タイヤを右斜め15°曲げようとした時のハンドルの必要回転量は約40cm、すなわち、ハンドリング係数法則によればその角度x°の2.6倍cmである。
極端な話、水門の手動式廻旋弁並みのまどろっこしさがあるような気がする。
いま思い出したが、「ザブングル」というサンライズ系のテレビアニメがあったけど、あのロボットの運転はなぜかハンドルなのだ。
ギュルギュルブンブン、ハンドルを派手にブン回して敵の砲撃から身をかわすわけだけれど、その不思議な原理はともかく、どう考えてももっと効率的かつ有効な、反射神経をフルにダイレクトに反映させる運転方法が他にあると思うのである。
そういう意味でハンドルって意味分からないのだが、しかしだからといってダイレクトに素直に反応してくれればそれでいいかというと極端に過ぎるのもよくはない。
「ダイモス」というコンバトラー系のテレビアニメがあったけれど、その主人公は動力パイプを体の要所に着けて、その主人公の動く通りに動力パイプがロボットに動きを伝える、つまり、主人公が何気なしにハナをほじったりするとロボットもハナのあたりに指を突っ込んで破損するという操縦方法なのである。
それも困る。
ノド乾いて何気なしにフト飲みものに手を伸ばしたらクルマは中央分離帯を乗り越えてしまった、というような事態は避けられなければなるまい。
またダイモスは操作しているロボットが敵からの攻撃で被害を受けると、その操縦者も一緒にぎゃあぁーと苦しんでしまうのが印象的であった。
10円玉でこすられた時や、事故った時のことを思うとぞっとする。
だからといって28号式のラジコン、プロポも、自分は安全なところから命令するだけの国家元首のようで卑怯な感じがしてよくない。
つうか離れたところから命令出してたら移動手段にならないわな。
声で指示するという方法も「そこで追い越しだ!」なんて言ってるうちはいいが、「あまりフカスな! 燃費が悪くなるだろ!」とか、「方向指示器はもう少し早めに出しなさい!」なんて微妙な指示をしだすと、小姑的な、教習教官的ないやらしさが前面に出てしまって、隣に女の人を乗せづらい感じがする。
そうこう考えると、今のママが一番なのでは・・という結論になるので現実もそうなってるのだという感じだが、個人的にはボルテスファイブ式のかっくいい操縦桿や、サイコガンダム的な脳波反応型なんかが便利でいいと思う。
あと座禅組んで乗りたいのでハンドルにスイッチ式のアクセルブレーキがついてると非常に助かると思う。
うーむ議論が行ったりきたりして恐縮だが、まあしかし肉体とクルマの適当な距離感を考えるとやはりアンシャンレジームな方式はしばらく続くと見るのが現実的であるな。
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