海洋空間壊死家族2



第8回

ホムンクルス   2003.5.15



化野より拾いあつめたる
あなたの骨を組み立てて
祈ればあらたしき生命ぞ創られぬる

赤子の如きふくよかなるその膚も
白くあせばむつややかなる背中も
桜の花ひとひら、落ちてし見れば
もとのけがれしかろき髑婁なり



子供が生まれたとき、父親は、まずその子が五体満足であるか、指差し確認し、さらに間髪入れず手と足の指の数を数えるという、ラマーズ博士の5−5−5の法則というのは巷間によく知られているが、実際、冗談のように思えて、その場に直面すると本当にやってしまうことの代表例である。
特に、「今までロクなことしてこなかったなあ・・」「悪いことたくさんやってきたなあ・・」というロクデナシヒトデナシ人間ほど、その確認回数が増えるという「シュペンターの比例法則」は、体感上の認識以上に正しいことが21世紀初頭に証明されている。
私の場合、一回だけ数えてそれで止めにしたけれど、本当、ここだけの話、指数えてホッとして、その後、赤飯食べてたら、なんだか泣いて寝てしまった、という屈辱のデータが長岡京済世会病院における99年の第一子誕生時の私の公式記録となっているのである。
今じゃ考えられないけど、当時の私の心理状態はちょっと異常だったようで、生まれてくる子供は、絶対にどこか異常をもって生まれてくる、という、ある種の直感というか妄信というようなものにとらわれていて、つまり、奥さんにも、生まれてくる子供にも本当、申し訳ないという罪悪感にさいなまれていたのである。
健全なる肉体には健全なる精神が宿るというように、邪悪な精神をもつ人間にはどこかしら悪い、畸形、障碍をもった子供が生まれてくるという、こじつけのような確信があり、ちょうど、京極夏彦だったか、ヒキガエルの様な頭をした奇形の子供が生まれてくる怪奇小説を読んだりしたこともあって、ぐったりとしてしまって、奥さんの顔もまともに見られないような状態であった。
しかし、そんなところに生まれてきたのは、今でこそちょっと頭おかしいんちゃうか?というような元気な女の子だが、その時はホント、小さい、かわいい、赤ちゃんがポッコリと生まれ出てきたのである。
ワーッとひと騒ぎして、人々が帰って後、しんとした病院の控え室でコンビニで買ったパック入りの赤飯を、奥さんと二人で食べていたら、過去におかした、人には言われないような悪企み、修羅のごとき悪行三昧が胸中に去来し、そんな私という人間を、神様が、子供が赦してくれたような、そして、その噛みしめた赤飯の、うすべに色の米粒ひとつぶひとつぶが、罪人である、人殺しでさえある私を祝福してくれているような感覚がくつくつとこみあげてきて、感謝と感動に満たされて、私は奇跡を見た宗教者のように、不覚にもぽろぽろと泣き崩れてしまったのである、というのは冗談である。
いずれにせよ、子供をもつような人間は精神に異常をきたしているというのは、大げさな話でなく、本当の話なのであるが、わたくし思ったのは、父親も異常なら、妊婦も異常、更にその妊娠夫婦の集まる産婦人科、産院というのは狂気の館なのであるという事実である。

誤解のないように言っておくと、異常というのは一般社会との隔絶の度合いのことで、それによって非難せられたり、放逐されたりする意味合いのものではない。
しかし、妊婦社会における常態との乖離と常識からの断絶というものは、精神分裂改め統合失調症とほぼ変わりなく、その分断社会は一種のカルト教団の独善的楽園にも似た、閉鎖状況を生み出しているのである。

まず何が異常って、やはり、子供第一主義の異常発達と展開である。
子供は国の宝、掌中の珠、子はかすがいという理(ことわり)はよくわかるのだが、それが行き過ぎるとはたから見て無気味なものに変わってくる。
腹の中の子供にモーツァルトを聴かせるとか、鳥の声、森のさざめき、小川のせせらぎ、その他なんでもござれ、CDかけて聴かせて、アルファ波αααα・・というのからして、もう既にして倒錯している。
さらには生まれる前の子供、大きなお腹に話しかけたりしているものも現れる。
あれ?それが、なにがおかしいの?そう思った人は多分、既妊婦、既父、あるいは妊娠症候群にかかっているといわざるをえない。
やっぱり見てておかしいですぜ。
「お母さんでちよー」なんて腹に向かって言ってる人を冷静に観察してみると、事態は悪い方向へ進行する錯乱人間の地獄絵図なのである。
現実世界における人格の見えない、ある対象物に話しかける図というのは、江戸川乱歩や夢野久作の世界に比類するオドロオドロの原色図版である。
例えば、室内的閉鎖空間で、ロッキングチェアに腰掛けて、ちいさな人形に、いやに本気で話しかけている妙齢の女性なんてのを見たとする。
大抵の反応としては「かわいそうに・・」という同情を伴いつつもブルッと来る、抗原抗体的拒否反応である。
そういうゾゾ気たつ、鬼気迫る何かを、ある意味、妊婦は持っているのである。
そしてさらにキワメツケには、それらの行動、思考を、子の父親、家族にも強要したりするのである。
ここで本当に恐ろしいのは、絶対に断れない、つまり、我々はその要求に対して拒否することはできない、という軍国主義的、強権発動が介在することである。
子供が大事なら話しかけて当然! 話しかけないなんて、つまり、子供のこと、私のことを大事に思ってないわ!、いいえ、疎ましく思ってるんだわ!という恐怖の三段論法が展開されるわけである。
妊婦というのは妊娠初期過程にツワリという身体的苦痛や、ホルモンバランスが崩れるなんてこともあって、神経は磨り減って、磨ぎ澄まされ、三角木馬の頂きのような不安定さをともないつつ、物事を悪いほうへ悪いほうへと考えていく傾向が強まり、簡単に言うと一種の「欝」状態になっている。
そういう人間には普通の応対は厳禁で、腫物に触るような、非常に気をつかう対応が求められてくる。
よほどのことがない限り、その希望は叶える、つまり、「逆らってはならない」という無言の了解というものが周囲に構築されるのである。
そういう恐怖政治的状況におかれ続けると、人間というのは目覚ましい順応適応能力を持ち始めるから、やがて、やらされていたこと、考えるように指導されていたことをまるで自分の考え、行動のように思い始めてくる。
この辺りは、修業と称するマインドコントロール、あるいは、三日三晩責められ続けて、その晩の晩飯に刑事さんがカツドンとってくれて、それで俺、うれしくて、というような傍から見ると世にも恐ろしい情景が繰り広げられることになる。
その結果、ご両親揃って、胎児話しかけマイク(!)を使って読みきかせをはじめたり、何をするということもなく、1時間でも2時間でも、CDから流れてくるニセモノの森林の音に2人で、いや、3人でウットリと耳を傾けるなんてことをすることになる。

産婦人科に検診に行くと、妊婦一人で来ているのはともかく、つがいで来ているのを見ると、自分を含めて、たいていそのような「でちよー」式の、似たり寄ったりのことをしているから、見ていてだんだん滅入ってくるのだけど、しかし、妊婦が出産状況へ突入する、あまつさえ陣痛が始まり、産婦人科の奥座敷、出産、病棟施設の方にお通しされると、事態はさらに転がって、ブレーキもサイドブレーキもきかない、サイレンの鳴り響く戦時下の翼賛的緊急体制に入ってくるのである。

まず、そこに足を踏み入れたことのある人は、どこかおかしかったな、という漠然としたうつろ覚えがあるはずである。
特に、当事者としてでなく、家族、友人の誰かが出産して、お見舞い、お祝いにそこに行ったような客観的人物が好ましい。
そういう人にインタビューすると、たいていの人は「イヤア、ヨカッタヨカッタ」なんて言って核心部分には口を閉ざしたりするのだけど、自分で認識していない第三の人格トムは、相当な違和感と相当のストレスを感じていたはずなのである。
まあ、だいたい、見舞いなんか行ってくつろげた試しはないけど、それ以上に気の張る、タブーの多い空間であることは間違いない。
受験生にスキーやスケートの話題は禁物であるとか、ガン患者の前でガーンとか言っちゃ駄目!とかそういう次元のレベルのタブーをはるかに凌ぐ、「赤ちゃんという新しい生命が生まれてくるのよ、お母さんは死ぬ思いでがんばってるのよ!」というプレッシャーは、看護婦が訴えるまでもなく、両親から伝わってきて身震いする。
しかもそれがよーく考えるまでもなく、理不尽でなく、本当にあからさまに「正しい」というところに私のような人間は引け目を感じてしまう。
圧倒的に「正しい」ものの前に立つときヒトは、両手をあげて、降参、白旗ふる、げんなりする、という手順を踏む。
例えば、「この地球上では今でも何人もの子供が飢えて死んだり、戦争で死んだりしているんだ!そんな不正義をあなたはどう思う?何もしないで手をこまねくのか!?」なんて言われたら、もう私としては対応の対象外として処理される事態である。
言っていることは正しい。でも、じゃあ来週末にでも子供を助けに、一丁、アフリカに行くか!とはならない。
もうちょっと若ければ、正面から取り組めるが、いろいろ経験してきた大人の立場としては、「ごめんなさい」というしかない。
「・・そうか、つまりきみはそんなやつだったんだな・・」
その昔、エーミールが、ヤママユガをつぶしてしまった私を、圧倒的正義を盾にじっと凝視してきた追憶は、今でも私をくるおしくなやませる。

確かに子供を生むということはすばらしいし、子供というのは何にもまして優先されるという概念も、子供を生み育てる「正しさ」も、二児の父としては理解できる。
しかし、通常生活を送る一般庶民は、その一分のスキもない正しさに当惑し、元の田沼の泥水をなつかしむのである。

さて、だんだん息苦しくなってきたが、その産婦人科の病棟施設の違和感の元を探し求め、さらに注意して見ていると、彼女達はまったく化粧っ気がない、ということに気づく。
私は殊更に、女の人は化粧をするべきだとか、キレイな服で着飾るのが当然、なんて押しつけがましいプレモダンな主張を持つ人間ではないが、というか、逆に、化粧をしていない女性を美しいと感じることが多い人間であるが、そこにいる女性がみんな化粧をしていないという状態はやはり異常だなあと思ってしまう。
見たことない人でも、想像したら「おかしいな」と思うでしょ。
これは非難でなく感想であるということで理解していただきたい。
別に、「しんどいところすいませんが、さ、化粧してください」といっているわけでもない。
ただ、化粧をしていない女の人たちが、作り笑いのない顔で(作り笑いしてたらもっと恐いけど)廊下を音もなく歩き回る空間というのは、大げさでなく、実際、無気味であった。
昔、若かった頃、よく、宗教関係の施設に潜入したりしたが、そこにいた女性らもやはり、化粧っ気というものがいっさいなく、無表情でうろうろと歩き回り、何か起こるとヒステリックな様子であったのと、妊婦はどこかシンメトリックである。
こうして見てくると、妊婦教とでもいうべき、全日本に大きく根を張る、ヒステリックな巨大宗教団体が存在することは言を待たない事実である。
その支配テリトリーに入った瞬間、ヒトはその強制法規、教条、宗法にがんじがらめに縛られ、マインドコントロールされて非日常のパラレルワールドへと迷い込んでいってしまうのである。
こんなことを書いている私もいまだその影響かから完全には脱しえず、恐懼しながら自己批判しつつ、心情をとつとつと告白しているに過ぎない。
決定的だなと思うのは、私のこの気の使い様である。
さっきから文章中に断わり書きが多すぎる。
ちび黒サンボやメシイや片端なんて、内容的には同程度でも、気にならず文字にできるけど、やはり、話としてとりあげたとき、身体に危険を感じる、安全上問題がある話題というのは、この日本では、右翼関連と、妊婦関連の二大巨頭、つまりは亜宗教関連になっているのだなあというのが僕個人の感想です。
イヤだなあ、お母さん、あくまで感想ですよ。





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