海洋空間壊死家族2



第79回

言語神官  2005.10.16




貌は老尉
裁きの杖もて
汚濁の時雨招き寄せ
巧禍の赤い火を熾きかかやかす



私の現在の唯一の愛読書は日経新聞である。
京都に住んでいた頃は京都新聞愛読者で、かつ人文系読書などきちんとしていたから、それなりに文学芸術方面の教養の深化と現代化が推し進められていたのだが、今限りある時間的資源はほぼ日経・朝刊夕刊に充てられているので、経済関係については比類なく詳しくなってきたけど、悲しいかなその経世済民の論理構築的空間にはココロ耕される実感あふれる話題というものは少ない。
もちろん日経にも文化面はあるのだが、テレビジョン的にいうといかにもテレビ大阪的、つまり民放の制作した軽薄な文化番組みたいで、NHKのような奥行きのある「間」を持つ特集記事掲載は少ない。
なぜか底の浅さが透けて見える形而上的な議論にとどまってしまうのだな。
そういう意味でも京都新聞て偉大だったなあといまさらながら感じる。
梅原猛や上田正昭、河合隼雄なんて人達がひょいひょいと小文を連載していたのだ。
病気になって初めて健康のありがたさを知るとはまったくこのことに似ている。

それはともかく、ここに書いてる話題というのも知らず知らず日経的な話題に収束している可能性が高いのだが、今回はさらにカメラが2台もついてくるような出典の明らかな、つまり日経的な話題。
このあいだ土曜日朝刊についてくるプラスワンという日経おまけ新聞に「気になる言葉遣い」ランキングというのがあって、具体的には最近の若いもんが使う言葉遣いって変だよねーという団塊Jr.以前の世代の加虐嗜好読み物である。
コレをみてフと思い立って、ワタクシも常日頃から胸に一物抱えた状態であるのでこの機会に系統立ててこんこんとお仕置きしておきたいと思ったのである。

まず自らの立場を明らかにしておくと、ワタクシは「『(気になる言葉遣いを)咎めだてる人々』を咎めたい派」である。
すなわち「近頃の若者が〇〇〇と喋るのが文法的におかしいし気持ち悪い」なんてしたり顔で言ってるヤツの浅はかさとあざとさとおぞましさを指弾したくて仕方がない近所のオバハンなのである。

「〇〇でよろしかったでしょうか」
確かに文法的には多少いびつなところもあるが、本質的にそれほどおかしいと言うほどのものはない。
しかしながら群集のポピュリズムが走性を持ち、付和雷同的に「気になる!」と喚き散らすには一番デマゴーグな言葉遣いである。
だいたいそういう人々は「私が天使だったらいいのに・・」とか「今日は止めておいたら?」とか言っちゃダメだぜ。
過去ではないことに過去形使ったらダメだそうだからな。
過去形を仮定形で使うというのは言語学的に世界ユニバーサルなデザインであって、たとえば「I wonder if I were Judth Newman…」なんて使用例を習ったはずである。
古語の世界でも仮定や希求は未然形を使うので、「あ」の音、つまり過去形のような形で「〇〇せば」「あらば」という形で使ってきているのである。
そういう歴史の積み重ねというものを否定して智慧の伝統を崩さんとしているのは他でもない自分達であるということに早く気付いてほしいものだ。

「〇〇からお預かりします」
別におかしかないだろう。
たとえば2,940円の買い物をしたとして、試しにまず5,000円渡す。
「5,000円からお預かりします」
細かいのをポッケから出して40円払う。
「5,040円からお預かりします」
あ、そうだ900円もあったかも・・。
というふうに、預かる側のキャッシャーはこちらの財布の都合などに気を使って、つまり「5,000円お預かりします」と断定的に言ってしまうと40円出す機会を失う我々に対して、親切にも「〇〇円から先にお預かりしました」+「他ないですか?」=「〇〇円からお預かりします!」と言って我々の次の一手への足がかりを与えてくれているのだ。
そういう人の親切を無にしたらバチ当たるで。

「私って〇〇じゃないですか」
何が嫌なのだ。
これも親切の一種である。
従来の日本人類は、特に女性という生物はその会話上、まったく相手の知らない事情を相手も知っていることと擬制して、つまり自分が知っていることは相手も知っているという無根拠な思いこみによって会話を成立させてきた。
だから少しでも論理的会話構築能力に長けた人がそれを聞くと全く意味が分からないということがままある。
統計では巷間で行われる会話の8割方がそういう破綻的会話であるとさえいわれている。
しかもそのお互いの疑問点を疑問のまま放置し、理解した気になって会話という形式だけが続いていくというオソロシイ状況が日本のあちこちで繰り広げられているのである。
そういう理不尽がまかり通る中、悪しき言語慣習を改め、自らの思い込みを一度言葉に出して訊いてみるという謙虚な心構えで質問しているのがこの言葉遣いなのである。

「私って虚脱性軟骨硬化症じゃないですか」
「あ、そうなんだ」
普通彼女が虚脱性軟骨硬化症だなんて誰も知らないのである。
今まではその知らない事実が覆い隠されたまま会話が為されてきてしまったのだが、この言葉遣いによってある程度の改善が期待できるわけである。
つまりこの気付きの会話があってはじめて、この人の話す家族の異常な行動のおかしみが理解されてきたりするのである。
ほんと懇切丁寧な人だなあ。

「〇〇のほう」
これもいいだろう。
「ほう」は方角を指しているのではない。
これを方角だと思っているのは文句言ってる言語障害者だけである。
「コロッケのほう熱くなっておりますお気を付けください」
すばらしいじゃないの。
コロッケや他の動静態物を客体化してモノをしゃべるという高度な言語テクニックなわけである。
ここで注意したいのは、熱くなっているのはコロッケそのものではないというところである。
人間が食べるものとしての物体が熱い、食べる時に熱いですよといっている。
つまりしゃべる自分AとコロッケBを分離しながら、コロッケBという座標軸から対置される自分Aとお客Cとの相対的距離感を測りつつ、ある意味共感を込めてコロッケBのほう熱くなってますよとお知らせしているわけである。
これを「コロッケが熱くなっております」と言われれば、ずいぶんつっけんどんな店員だなという印象が生まれるはずである。
それもそのはず、そこには自分Aもさらにはお客Cも介在しない、コロッケBが熱いことを観察者としての立場から認知するつめたい唯一神めいた感情しかないのである。
だいたいコロッケが熱くなっているなんて、英語で言えば「This is a pen.」みたいなもので、そんな文法はサルでも言える単純脳細胞なわけである。

「私的には」
ほんと何が気になるの。
たとえば広辞苑をひいてみると「的…名詞に添えてその性質を帯びるその状態をなす意を表す」とある。
そういう意味で素直に読めばいいのである。
中国語でも「的」は「の」の意味である。
このあいだパンダ電子のHP見ていたら「熊猫的企業風土」とあったし、中国語的にもおかしくないわけである(熊猫的ってどんな風土かは多いに興味があるが)。
最近私が講義を受けているある先生は「皆さん的には」を連発するし、高校2年のときの数学の先生はカバンの落とし物の紹介で「カバン的には青くて四角い・・」と言っていたし、まったく違和感はない。

えーきりがないのでこの辺にしておくが、どの言葉遣いにも共通するのは「別に変じゃない=気にならない」ということである。
結論としては、聞く方の文化的感覚的精神的退行が言語受容体を鈍らせているだけなのである。
そしてその鈍い人間の代表である「文化人」がテレビや雑誌などで、そういう言語批判がさも知的であるかのようにわれを争ってピーチクパーチク文句言ってるから、そのフォロワーのアホ人民が真似して街頭でしたり顔に嘆息したりしているのである。

ただ、気になる言葉遣いの中にひとつ、みっともない類型があるので揚げておくと、「ゲロうま」「うざい」「きもい」「やばい」「きしょい」など。
これらはその意図するところがどこにあるかはともかく、その底流に流れる思想のようなものがあまりにくだらなくて、まあ言ってしまうとムレの論理が幅をきかしている最悪サイヤ人の言葉たちであると思うのである。
この言葉を使う人間を思い浮かべてみれば分かると思うのだが、多分に寄らば大樹の蔭的な、主流、強者におもねりすりよっていく没個人・没個性のケがあらわなのである。
お気に入りの食堂なんかで「やばい! やばいよコレ!」などと手を振り回して喚いてる人を見かけると、なんだかやばい人間をみたという好奇心よりも、同じものをうまいと思って同じ空間で食事しているむなしさ悲しさが先立ってきて、「むなしい! コレむなしいよ!」などと喚き散らしたくなる。
そうして次ぐ日から大阪の町では「むなしいよコレ!」という食べ物に対する賞賛の言葉が爆発的に広まっていったりするのである。





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