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第76回
宿題 2005.8.2
また夏還りて
宿根毛つきたる題うづめつつ
これまた小学生飼育日記で恐縮なんだけど、先々週の木曜日から小学生である我が娘が夏休みに突入した。
今後悲しい意味でしか夏休みが来ないであろう我が人生を思ったとき、最初だけとはいえ希望に満ちた長期の休暇を控えた若いイノチのかかやきに人知れず立ちすくんだりしながら、その終末部分における肥大化してゴモラ化した日曜日のサザエさん的叙情をいかにして子々孫々伝えようか・・と、抵抗できないものを嗜虐する悦びに打ち震えながらてぐすね引いて擦り手する日々が始まったのである。
んでまずビックリしたのだけど、夏休みが始まるというのに娘は通信簿を持ってこないのだ。
とんだ不良娘に育ってしまった。
何が悪かったのだろうか。
種明かししちゃうと、学校が前期後期制になって、制度的に休み前の最終日まで授業をやっているということらしいのだけれど、私はもう小学生の始まったうちから通信簿をドブに捨ててくるようなのび太くん的人生が始まったのかとドヤキヤしたのである。
しかし、お父さんの特権的、刹那的楽しみが取り上げられちゃったからというわけじゃないけど、この締まりのない夏休みの始まり方というのは日本という国を危うくする第一歩であるような気がするのである。
最近変な時間に電車乗ると小学生が乗りこんでくるのだけど、こいつら、大人が2列で並んでるところ、電車が到着するとドア付近にまるで中国人のように団子状にわぁーっとたかってしまって整理券・番号に代表される順番やそこに介在する納得性などをまったく無視した行動をとってしまうのである。
んで、これはしつけの悪い一部の小学生なのかと思ったのだが、どうもそうではないらしく、どこに行っても小学生は団子突入型の昆虫生態なようなのだ。
で、思ったのは今の子供って区切り、何かと何かをワケ隔てる壁・仕切のようなものをきちんと把握していないのではなかろうか。
通信簿もらって夏休みに入るとか、チャイムが鳴ったら礼をして授業が終わるとか、そういう区切りとかけじめというものを教えられないまま、身につけないまま大きくなっているような感じがするのである。
それは幼稚園でもそうだったし小学校の授業参観や運動会に行ってもそう。
なんだか脳の後ろの方が拒否するような締まりのない空間がそこには広がっていて、それはやはり怒鳴って怒るヒトがいないという事実に起因するであろうことはそれとなく理解されてくる。
やはりどんな組織にも父性が必要なのだと思うのであるな。
その電車団子小学生もまったく悪びれずに、外界というものを知覚できずに(無視ではなくて)犬のような無邪気さで電車になだれこんでいくのである。
それはともかく、わが娘のハナシ、4ヶ月も一生懸命学校に行っていたからその結晶体である結実果実である何かをもらってくるのだとコチトラ思いこんでいたから、肩透かしをくらってなんだか興味の対象を失って狼狽する視線はしかし、また懐かしいものをちらと見付けて狂喜にわなないたりする。
夏休みドリルね。
とりあへず子供が寝静まった頃にそのドリルをそうっと開いて、「おぉーっ」とか「んぐぐぅっ」とか、言葉にならない声を発して、なんだか親に見られたくないような趣味の時間が始まるのだけれど、そのドリルを見ていてまたぞろ記憶の渕の奥底から既視感を伴った感慨があふれてくる。
そしてめくるめくページをめくっていった時、そこから怒りにも似た、食べ物の恨みはオソロシイ的な20年間沈殿していた怨念がグラグラとよみがえってきて、これはいつかどこかできちんと言っておかねばならんな・・という執念に満ちた、一言でいってケツの穴の小さい、下卑た了見の文句イワしてもらおか的な稚拙さを以ってここに書き記している次第なのである。
問1 つぎの言葉の反対の意味の言葉を書きなさい。
@なか →
Aたて →
Bしろい →
Cちいさい →
・・・・・・
問1はこれが延々と10問くらい続くのであるが、これを見ていたら、ずっと昔この同じ問題で、ある先生との言い争いとまではいわないが、ある頑固な小学生が正解がわからないといってごねていたのを思い出したのである。
ちなみにこの模範的正解は昔も今も、
@そと
Aよこ
Bくろい
Cおおきい
となるらしいのだが、小学生の私にはわからなかった。
@の「そと」はわかる。
しかしAからCの答えは納得がいかないとは思いませんか。
たての反対はよこって何だかおかしいじゃろ。
結論からいうと「たてじゃない」が正解である。
しろいの反対は「しろくない」。
ちいさいの反対は「ちいさくない」、だ。
こう書いて、確か先生に「ふざけるな」とか「いいかげんにしろ」とか、そういう納得性の低い毀貶を食らったのだ。
しかし、これが我が小学生時代の、そして、ビックリするのだが、大人になった現在でも十分に正しいと知覚できる正解例なのである。
そして、小学生の頃には先生に説明できなかった何かというものを今何とはなしに説明できるような気がするのである。
「中」の反対は「外」というのはよくわかる。ある境界があってその対称に対置される感覚というものがはっきり感覚できるからだ。
しかし、「横」の反対は果たして「縦」なのだろうか。
たとえば横の線を反対にすると縦になるか、というとどうも縦にはならずに横のままになっているようなのである。
「小さい」の反対は「大きい」かというと、そうでもなくて、中くらいのものも反対であるような気がするし、もっと小さいというものも小さいの対極に位置するものであるような気もする。
つまり、反対というからにはどこかに評価軸というものを置いて、その対極というものを考えない限り反対という考え方はありえないのである。
そして「なか」という言葉は半ば自動的にその対称点(線)を検索してその反対へと自らを投影するが、「ちいさい」ことは誰か、あるいは何かに軸を与えられない限り、上下左右の定まらない宇宙空間をさまようひとつの浮遊体形容詞なのである。
たとえば「上」の反対は「下」であるが、「空」の反対は当然に「地面」を意味しない。
まさにそういう言語感覚的に怪しいところを、いかにも当然です、これを覚えなさい! という風な、まるで問題を解くということを、勉強学習そのものを目的化しているような態度が、今の今まで時代を貫いて生き抜いてきているところに、怒りを通り越して呆れや恐怖をも感じてしまうのであるな。
ホントコンナ境界線のはっきりしない知識偏重主義的教育を続けていたら日本人はまるで物事の順序や秩序の理解できない団子集合、拝金エコノミークラス人間ばっかりになってしまう気がするのである。
とりあへず昔言葉が拙かったおかげで反論できなかったことを漸く今吐露できたということではーすっきりした。
思い知れN尻教諭!
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