海洋空間壊死家族2



第74回

遠足   2005.6.14




遠キ山ニ日ハオチテ
ハウハウ辿リツキタル町ニテ
膝スリテ家目指ス
足裏爛レテ歩クアタワズ
水溜リノ水啜リテ渇ヲシノグ

カトランナル知遇寄リイテ
ワガ境遇ヲワラフ
カカル屈辱ト至ラシメシシ仕置キゾ
忘レザラマシ
忘レザラマシオ



子供が遠足に行った。
自慢じゃないが私も行ったことがある。
近代学校システムの継続性の中で十数年前とはいえ、同じような遠足なるものに参加した身としては、自分の子供が遠足にねえ・・という慨嘆を禁じえないが、しかしとにかく相当に懐かしく親しみある感覚が蘇ったことはわかっていただけるのではないか。
遠足ですよ。
記憶というものは統計的にはフラッシュバックしたり、走馬灯のようにゴーラウンドしていくという見方が定説的かつ一般的だけれど、そういう劇的なロードショウというのは稀であって、実際にはある過去の事実がプラカラーを塗る刷毛の往復のように漸進的に色を増してくる、この遠足という行事に関しては、もっとスローモーな、擦りむいた傷から血漿が染み出してくるような、そういう思い返されてくる感情が漸くにじにじと滲んで湧き出してくるというのが一般的日本人の国籍表章ではないかな、とこう思うのである。
しかもこの感覚は子供を飼育しているとやたら頻発するので困る。

近所の駄菓子屋に行った。
自慢じゃないがかつて私も行ったことがある。
最近駄菓子屋をテーマにしたような菓子屋というものが、全国のGMSやSC(商業施設だな)に隙あらば設置されているみたいだけど、あれは我々過去の記憶を食べて生きる人間から見ると相当の邪道で、言ってみればぶどう狩りやイチゴ狩りや、現代版潮干狩りみたいなもの、つまりそこに用意されたエンターテインメントを計画通りに消費するという計画経済=社会主義志向なのでほとんど面白くない、というのは自明の理である。
それはそれとして、今回出かけたその駄菓子屋は、普段通りがかってもパナ○○〇○研究所のような白い布で蔽われていて、古い看板や設置された自動販売機などがかろうじて駄菓子屋を主張しているという怪しいこと限りないお店だったので、入るまで不安であったのだが、入ってみるとそこはテーマパークでない、黴臭いような駄菓子屋のまさしく本質が繰り広げられていた。
暗闇に目が慣れてくると、どんつきに掘りごたつの置いてある居間が透視図法のように見えていて、その手前に安っぽい木ワクの、低目いっぱいを丁寧に突いたような什器が並んでいるという多分に既視感のある構成図が目に入ってくる。
少子化いうのは世間の情報以上に進行していて、公園なんかをうろつくとわかるのだが、こういう純粋なる子供の世界・城に入りこむともっとわかる。
昔日使っていたであろうスペースの半分くらいしか使っていないのだ。
通路がコの字に折れ曲がっていて、そのうちのL字部分をまったく使用していない、つまり、一本筋の両棚しか商品陳列台として利用していないのである。
つまり半分以上のスペースが死に体なのである。
ワタクシ流通業だから商品回転率と現金資金回転の重要性というものが身に沁みており、その血の滲むような対策もわからないでもないのだが、しかし、子供の夢の城があの体たらくでは、遠足のおやつくらいしか買いに来なくなって、普段はまったく子供が寄り付かなくなっていくという季節労働者にも似た死の谷デッドゾーンへと変化していく負のスパイラルに陥るのはある意味当然なのではないか。

うちの娘は普段お菓子を買い与えられていないので、つまり食べ慣れていないので、こういうところに来ると舞い上がってしまう懸念があったのだが、杞憂に終わり、私よりも現実的かつ常識的な選択を次々とクダしていく姿は頼もしい限りであった。
徹底してマズソウなものは選ばない。
色だけ妙に美しい細長ゼリーや、青りんご餅などには手を出さず、キャンデーやスナック菓子のうち、大人が見てもうまそうなものを着実に選んでいく。
あまりの懐かしさにココロ上ずってしまったオトーサンは、これはどーや、わーわーこれすごいやん! などと次々とクライアントに提案してみるのだが、冷酷にもすべて却下されしょんぼりかつ渋々と棚に獲物を戻す悲しさといったら胸張り裂けんばかりなのである。
たとえばチョコバットなんて懐かしくて、トーゼンこれは買うよな! とザル(!)に入れようとしたらすぐ撥ねられる、そして私ってイイ大人だから、謙虚にその味と費用対効果なんかを反省気味に考えてみると、チョコバットってあまり美味しくなかったという結論的記憶が蘇ってくる。
なんだか湿気てすかすかの乾パンみたいのに、これまたカカオの味のしない黒い乳化固形物が塗りたくってあるというのが客観的チョコバットの正体である。
実質的味覚評価でいうと、食品波動レベルは子供に言われなくてもだいぶ低いような気がする。
そういう実体のしょぼくれたものには目もくれず、わが娘は麦チョコ、ハイチュウミニ、ベビースターなんぞを選択し、そして150えんまでという明確な指示を胸にワタクシメが計算代行をしたのであるが、なぜか10円オーバー。
アメちゃん1個返却。
スマヌ娘よ。
しかし見てみると、チロルチョコ、うまい棒など定番もあまた並んでいるのであるが、売り場面積の縮小の結果見当たらなくなった駄菓子の王者たちの絶滅的衰退も多く、その姿を必死に探すわが目の周章狼狽加減といったら情けなくなる程度なのである。

さてここで遠足のおやつというものの総論原則論というものを復習してみたいのだが、時代、地域によって異なるものは横に置いといて、そこには普遍的な総則というものがある。
まず、有名なもので、バナナはおやつに入るのか。
派生的なものではブドウやナシはおやつに含めるのか、という問題。
これは異論なく「おやつではない」という解釈が日本国内においては学説判例とも決着していて争いのないところである。
争いのないところに煙は立たないのであるが、なぜか毎回必ず、クラスの中堅どころがホームルームなんかで質疑を出して、先生の言質を得るという儀式的なことが行われる。
これは春の旅行の時に確認していても、なぜか秋の遠足にも同じ人間が質問していたりするので、人類行動学的にまったく不思議な行動なのである。
ある意味議会制民主主義的な形式前例的ルールになっているのであるが、この儀式が遠足の来るべき悦楽磊落を予感させる前戯として欠かせなくなっているのはいつの時代も変わらぬ人間の欲望の浅ましさの為せる技なのである。
おまけ付は買ってもよいか、という問題もある。
このおまけというのは、もはや前近代的な響きを束戴していて、今お菓子売り場に行っても端っこの方で肩身を狭くして置いてあるようなお菓子形態である(海洋堂で有名なあれは大人が買っているので別枠なのである)。
しかし昭和40〜50年代にかけて、このおまけ付お菓子というのは一世を風靡していて、たとえば代表的な物でいうとスポロガム(男の子用・女の子用)とジョイントガム、リカちゃんガムというのがトップを争い、遅れてビッグワンガムがその後を追い上げるという展開であったのである。
その時代背景からみると、昭和50年くらいまでは遠足において比較的平和な、おまけ付もおまけ無も区別しない、つまりおまけ付OKの時代が続いていたようであるが、おまけ付の隆盛と歩みを共にするように弾圧は激しくなり、私が小学生の頃(昭和55〜60年代)には全面禁止になっていたようである。
しかし平成17年5月現在、そういう議論さえも風の彼方に消えてしまっているようで、少子化と、それに伴う子供の管理体制のシステム肥大は、細かいことは言わなくてもいい、あるいは学校がそんな管理する必要ないという尊大な各家庭の傲慢を伴って学校教育統制というものを有名無実化しているようなのである。
あまつさえ、ガムを買ってはいけないというような基本問題さえも遵守されていない。
たしかに最近その辺にガムが落ちていることって極端に少なくなったけど(タバコはまったく減ってないけどな!)共同生活の、特に集団行動軍隊生活的学校においてガムは持ってっちゃダメだわなと純粋に思ったので、娘には「当然だぜ・・」と強制的にガムを排除してしまった。
ま、人前でガム噛むような子供大人にもなって欲しくないしな。

子供が寝静まったのち娘の獲得物を前に夫婦で軽く2時間くらい駄菓子の思い出バナシを繰り広げたのだが、日本全国どこでも驚くくらい均質に売ってる物って一緒なのが判って興味深かった。
私が好きだったのを一応挙げておくと、セコイヤチョコレート、ベビーチョコ、ビックリマンチョコ・・、チョコレートのプライオリティって今と比べて断然高かった。
スナック菓子では、うまい棒は基本として、サッポロポテトベジタブル・バーベキューが好きだったな。
カールは昔から歯に挟まるので嫌いだった。
特に塩味はハイミーやアジシオの味がして頭痛くなる。
ポテロングも好きだったけどあれってお高くとまっていて予算オーバーファクターナンバーワンの地位をグリコポッキーと争ってたな。
それとコーラアップって多分グミ菓子のはしりではないかと思われるが毎回必ず購入するほど好きだった。
ユートピアかなんかお笑い芸人がテレビCMをしていたが、第2弾のオレンジアップとどちらにするか店頭で10分くらい悩んだのを思い出す。
あとドンパッチが出た時の衝撃って今では考えられないほどのインパクトがあったと思うのだがどうなのだろう。
ドンパッチのCMも誰かお笑い芸人だった気が・・。
それとは別に、甘いコナの入った袋にアメを突っ込んで食べ、突っ込んで食べするやつってなんて名前だったっけか。
あれはよく考えると塩に醤油をかけて食べるような、いや、チョコレートフォンデュにポッキーを突っ込んで食べるようなナゾの食べ物だったけれど、あの壮大な無意味無駄がよろしかったなあ。
ポポロンとかチョコロンとかドーナッチョとか、あとハンバーガーの形のあれはなんていったか、あれらの欺瞞に満ちたお菓子もそれなりに美味しかったけど、やはり何といっても私は「きのこの山」派だったな。
あ、あと変なポリ容器に入ったヨグールみたいな商標の、ドブの泡みたいのを木製スプーンで食べるのがあったけどあれって今思い出すとぞっとする味がしていた。
などなど、まあ考え出すとキリがないのである。

何はともあれ、今回思ったのは150円て思ったよりいろいろ買えるのなということ。
当然子供の頃にはそういうミニマムな限界資本の効率的配賦というものに命をかけて取り組んでいたのだけれど、大人になってすっかり忘れてしまっていた。
いま大人の世界では150円ではお茶1本しか買えない。
思えばお茶1本150円てバカにしてんのかという値段である。
うちの子は150円でアメちゃんとチョコとスナック菓子とグミみたいのをお買い上げしていましたぜ。
そういう風に子供的なミクロな視点でいろんなものを見ると、どう考えても費用対効果がオーバーなものって多い気がする。
ラーメン1杯800円てな。
トマト1個100円てなー・・。
いま盛んに石油や資源コストが上がって原料代が高まって、そのわりには最終消費局面での売買価格が上がらずに中間メーカーが困っているという話をしているけれど、実際にはソヤツラも今でもそこそこの利益は出ているのである。
言ってみればそれだけの利幅を取れるほど物価が押し上がっていたというのが真実であって、プラザ合意だか円高ドル安だか知らないけれど、そういう値上げ局面ではしっかり値上げして、その逆のときは知らぬ顔をしていたツケがやっと今消費者に還元されていると考えれば、デフレという言葉は適当でなく、長期インフレの沈静化というのが今起きている実際の現象なのである。





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