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第72回
暴漢 2005.4.18
尊ぶに値する歴史と
天地人の和の血統を持つ人民よ
誇りを取り戻し世界に冠たる王土を
現世に蘇らせたまへ
たとえば両親が強盗放火魔で、もちろん裁判で両親は死刑、普通それまで住んでいたところに一族は住んではいられないから夜逃げ同然で出ていくべきところ、やむにやまれず今でも子供が同じ地域に住んでいるとしよう。
当然地域の人間、放火された住民たちは子供にも辛くあたる。
普通の暮らしは期待できない。
学校にも行けないし満足に食べ物も食べられない。
しかし子供はよくできた子供でそれを逆恨みせず、会うたびに陳謝して無け無しのお金を毎年支払って償おうとしている。
そのうち子供も成長して住む家を建てることになった。
当然住民は面白くない。
放火した人間の末裔が自らの家を建てて住む気か。
子供が家を建てたところその家を補償として奪ってしまった。
子供は因果だと思い、訴えもせずまた一から出直す。
一生懸命働いて今度は畑を手に入れた。
住民はそれが面白くない。
とれた穀物野菜は半分よこせといった。
子供はそれも一理あると思い毎年畑の収穫の半分を住民に手渡した。
親の罪を心から申し訳ないと思ったのだ。
その頃には住民は強盗の子供から得られるアガリや自らの事業で大分余裕ができていた。
世代も替わっていたが住民は次世代にもうまみのある被害者権利と意識を相続した。
あいつの親が、あいつらが我々を悲惨な目に遭わせているんだ・・。
そのうち強盗の子供も人並みに恋をして結婚することになった。
しかし住民はなんだか面白くない。
お前なんかに結婚の法的権利なんかないんだ。
その配偶者を一晩貸せや、と言ってみた。
住民たちは心の中では人道的にさすがにそれは断られるだろうと思った。
でも言ってみるだけ言ってみた。
子供は躊躇したが親の罪を思い・・・・・。
えーこれが進行中の中日関係の病状あらましのダイジェスト版の概要である。
思うに、強盗して放火したという罪は断罪されるべきであり、かつ記憶から抹消されたり風化されるべきものではない。
南京大虐殺だって従軍慰安婦だってあったのは確実である。
非人道的なことをしたものだ。
そして大多数の日本人はそれを忘れないだろうし二度と起してはならないと思っている。
ウチのおじいちゃんも肩身を狭くして生きてきた。
できるかぎりの補償もしてきたはずだ。
だから、もう、いいだろう。
これから生きていく中で得られるすべてのものがあんたらに指弾され搾取されるべきものなのかと思うとうんざりする。
一度許すと累乗的につけ上がっていく畜生にも似たみっともない人種というものが世の中には確実に存在するが、そういう人間に捕まった人間の半生はとてつもなく悲劇的である。
しかも彼らの言う上、ドイツは反省しているからいいのだそうな。
日本人は反省していないと。
ドイツは反省しているから隣国も寛容に融和していって、その結果EUによる東欧統合も起こっているのだそうな。
そうじゃねえだろ。
今まで日本の首相で謝ってない人間がいるなら言ってみろと言いたい。
しつこいくらいことあるたびの談話、訪問時の会見で謝っている。
特に自社連立のときの村山富市は心から謝っていたし見ているのが気の毒なくらい自らを卑下し貶めていた。
しかし、今までそうやって事態は推移してきたけど問題は解決しない。
つまり何回謝ったって多分許されもせず、融和もしないのだ。
あまり言いたかないけど隣人の人格的成熟の度合いがドイツと日本両国を分けている。
ドイツ周辺はキリスト的価値観という中途半端ながら寛容の精神が息づいており、日本周辺にはゴネドクの火事場泥棒的猛禽思想が根付いている。
そういえば関西に来て初めて見たけど同和地区ってのが本当に存在して、そのこと自体にも私びっくりしたのだけれど、しかしそこに住む人間と周辺住民の諍いというものを実際に目の当たりにした時、ワタクシ思いましたね。
劣等感を自己強制的に抱いて権利を主張する人間がいる限り差別はなくならないなと。
そして差別って何かという本質に突き当たるのだけど、それは偏見でも見下す優越感でもなくて、つまり羨望である。
しかも羨望は等しくインタラクティブに発せられていて、さらに、差別される側からの羨望は根拠がなく、そして差別する側からの羨望はすべからく物質的である。
これはユダヤ差別でも河原者差別でも見られる普遍的特徴である。
たとえば私が目にした例では、ある市の職員が同和地区出身かそうでないかで、同じ仕事にもかかわらず数百万円も年収が異なっていた。
もちろん多いのは同和地区の人ね。
またその地区の銭湯に行くとなぜか入湯料が安くて施設がゴージャスというのもよく知られた事実であった。
そしてその物質的事実が互いの不和と非融合性を相乗的に高めていってしまっているのは傍から見ると自明の理なのである。
この物質を排除したとき初めて双方の羨望の砦は蜃気楼のごとく雲散霧消する。
つまりこれらの優遇政策が政治家との癒着と共に消滅しない限り双方の不信感というものは決して消滅しえないのである。
翻って日本と隣国の関係で言うと、いいかげんに物質的援助や形だけの例年の謝罪をやめることである。
思うに仏教圏の人間の思想的優良性は甚だ高い。
これだけ謝って補償して復興・繁栄に手を貸して、感謝していないのは儒教圏の2国だけである。
ビルマ、タイ、インドネシアなどの国はそろそろ許してやろうという気概が感じられる。
アジア・アフリカ会議後数十年、アジアがこれだけ勃興して、アフリカが水面下に沈んだままなのは日本によるところも大きいのである。
しかもそれを声高く喧伝しないのもヨーロッパ人種と違って奥ゆかしくて美しいではないか日本。
東南アジアの人々はそれをうすうす感じているのではなかろうか。
しかし北東アジア儒教人民は感じない。
儒教人民には一生わからないだろうが仏教思想国の人民の正直さと気高さというものは世界に誇れるものである。
あまり海外経験・外人経験はないけれど、仏教圏の人間は比類なく気高く、フランス人も素晴らしい人格者が多かった。
やはり誇りの有無というものが決定的にその人間の人格を高下している。
どこぞの隣人にも誇りというものを持ってほしいものである。
卑しい乞食根性はそろそろ捨てるべきである。
一方で、日本の政治家の不誠実さと戦略性のなさが問題をこじれさせている面も否定できない。
この国の政治家の志の低さというものはもう既にどうしようもないレベルに達しているがこの辺りの理由はまったく自明である。
誇りのある人間の隣にはいつも卑しい人間が栄えてしまうのである。
そして政治と金銭というものを尊ばない仏教思想とあいまって、その国地域の中でも卑しく劣後の三流五流の人材が政治家になってしまうから、日本の政治家は目も当てられない状況になっているのである。
これは大衆が衆愚だが政治家やエリートが優先的人格者によって占められている欧米諸国とまったく対照的である(ジョージは別よ)。
しかしそうは言っても近視眼的に言うと、小泉首相は中国と韓国に土下座して「もうしません」を400字詰め原稿用紙いっぱいに1000枚くらい送りつけてやるくらいしないと日本の短期的将来は危うい。
中国の人口13億人、うち都市人口5億人。
この5億人がたとえば日本製品を1年で10万円購入するところ、排日運動で半分しか買わなくなるだけで1年で25兆円の富が失われてしまうのですよ、小泉総理大臣。
実際にはそれ以上の富が失われるであろうことは想像に難くない。
今日本の資本家たちは戦々恐々としている。
せっかく韓流ブームなんかで橋頭堡造ったつもりがえらい横槍が入ったもんだと。
靖国神社なんかどうでもいいじゃないの。
ポオズはいらん。
キリストも言ってるよ人の見てないところで祈りなさいってな。
自宅に仏壇でもこさえて秘密のミサでもやってくれたまえ。
竹島も尖閣諸島もくれてやれ。
それが彼らの言う「謝罪」になるのなら安いものだ。
ただしもうそれ以上は卑下しないという明確なラインを持ってな。
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