海洋空間壊死家族2



第71回

ガニメデ   2005.3.28




宇宙のここらへんに一本
量子縮動のラインをひいて
ある星雲ガニメデの位置(16、24、02、4186)から
線対称にがく片集中させた物質A
そこで気化する鉱石のナパーム樹脂子は
あなたの暗闇の不確かさに
ドリアンのかほりをした
溶岩色の上下左右を与える



毎朝うがいをする。
えーこれは子供の通う幼稚園の今月の目標なぞではなくて、私が会社に出勤して、あるいは家に帰ってきたら必ず己の咽頭に課している身辺的業務課題、つまり私の座右の銘のようなものである(ちょっと違うかな)。
実際この課題を身体に賦課するようになってから驚くほど風邪を引かなくなった。

一方で、バカはカゼを引かないと言うがあれは本当だな。
うちの子供を見ていると上の子と下の子でカゼを引く確率が全く異なっており、ここではどっちがどっちと言うことは言を避けるが、やはりバカな方が風邪を引かない。
それを見るにつけて、やはり高邁なるワタクシメの頭脳回路もとうとう具合悪くなってきて風邪を引かなくなったのか・・とも思うが、しかしまあそんなものより、今までと何が大きく変わったってこのうがい行動がわが生涯での一大変革であるのは間違いないのでこれが風邪減退の最大の要因である(とする)。
私が子供の頃、うがいをするというのは良家の御子息がするものであって、男児たるもの手を洗ってもハンカチなんぞで手をふいたらダメ、うがいなんぞしようものならその日から3年1組男倶楽部の会から除名され一緒に靴飛ばしもできなくなってしまうような行動であった(と思う)。
だいたい「手洗いうがい励行」という言葉にすでにしてなんだか月月火水木金金! とか贅沢は敵だ! という戦時標語的な胡散臭さを感じ取れるではないか。
そういう保健体育当局およびPTAの施策方針に素直に従うことだけは、子供心にもしがたい気がしていたのである。
そもそも「うがい」という文化意識自体が群馬県には薄かった気もする。
普通では想像つかないほど群馬県の冬は風が吹く。
大げさではなく冬になると毎日、特に午後になると台風並みの風が吹くのである。
橋の上を痩せた老人が歩くと川に落ちるほどである。
そういうからっ風文化の中、うがいというのはさほど重視されないというのは今となっては理解できる。
うがいしたってどこもかしこもホコリだらけなのだからうがい3秒後には元の木阿弥になってしまって、やってもやらなくても一緒なのである。

えー話を元に戻すと、毎朝うがいをするという話ね。
まずワタクシ毎朝会社に行くと荷物をひとまず置いてパソコンの電源を入れると、おもむろにトイレに行く。
まだ頻尿の年頃ではないうえ、小便および大便は家でやってきているから、そこに何しにいくかというと「うがい」をしにいくわけである。
流し台(給湯室)もあるのだが、そこはほれお偉いさんの朝のお茶入れなどで必要以上にバタバタしており、さらにその横チョでうがいをするのも気がひけるのでここはやはりトイレの洗面台でうがいをせざるをえない。
ここで大問題なのがそこ(トイレ)の空間充溢気体における非・常態的分子の占める割合であって、簡単に言うと、どちらさんかの排泄物の臭いがそこに厳然と内在というか介在するのである。
ウンコくらい自宅でしてこいよーと思うのだが、まあトイレというものの存在目的などを考えるとそれを拒絶できるような新機軸を持つ反論などあるべくはずもなく、とりあへずは「仕方がない」という結論に落ち着く。
しかしその朝一のウンコの臭いがどうもヒトとしての許容範囲を超えているケースが多々見受けられるのである。


ケース1:にんにく卵黄タイプ
30年以上生きてくるとウンコというものに対する洞察というのか薀蓄というのか、つまり自分の健康状態や、前の日に食べたものの消化具合など様々な症例を(もちろん自分のよ)見続けてきているから、たいがいの色・臭いというものは判別がつくようになっている。
人の消化器官てのは面白くできていて、食べたものというのがほぼそのままで出てくることは珍しくない。
たとえばうちの子が小さい頃、スイカを食べた次の日に出したウンコにはびっくりした。
スイカ色なのである。
なんだか遠目に見るとスイカそのものが出てきたようにも見え、さらには匂いもスイカそのものなのである。
よく見かける例でいえばモヤシやトウモロコシなんてものも形そのままで出てくることが多いし、うちの姉なんかなぜか百円玉飲み込んで次の日にウンコで回収しておった。
またワインを飲んだ次日なんて、まあ酒呑みはたいていピーピーなんだけど、その粘着性の紫色物質を眺めているとなんだかハンバーグなんかにかけたら最高な感じがしてくる気がしないでもない。
タバコの充満したとこで飲み食いした時の次の日のウンコなんてのも明確に非常態的な差異というものが明確であり、多分タバコを吸う人って自分のウンコのニオイ嗅いで一息ついたりできるはずなのである。
このように、たとえ他人様のウンコでもその前日の外胚葉的行動というものはウンコを見れば、あるいはウンコのニオイを嗅げば手にとるようにわかるようになっているのである。

そういうもろもろの事例の中で、特ににんにくものを食べた次の日のウンコというのは信じられないような臭いを発しており、それは生のままネギをかじったような辛味成分Aと、小便を低温蒸留して濃縮したアンモニア刺激物質Bを、足して1.5で割ったがごときすさまじい対戦型息詰まり空間を生じせしめている。
雨が上がった直後などに、遠くの空を灰色い雲が低くぎしぎしと音を立てて移動するような光景を見ることがあるが、それにも増して空気そのものが固体と化した呼吸抵抗を感じるのである。
しかもその我が職場トイレのにんにくウンコはそれを遥かに凌駕した臭いで迫ってくる。
それはにんにくウンコの持つある種植物的なコクと濃厚さに加えて、明らかに動物の持つ、獣(ケモノ)臭を含有しており、ここで推測すれば、よく新聞広告に載っている健康食品「にんにく卵黄」というものがウンコナイズされたもの、というものが一番近そうな気がするのである。
にんにく卵黄関係のヒトは怒らないで欲しいのだが、にんにく卵黄という言葉の持つ迫力というものがあの臭いに一番シックリきているような気がするのである。

ケース2:ザリガニタイプ
しかしこう毎日にんにく卵黄を摂取し、かつ会社で必ず排便する人間て一体誰なのか? というのは実は未だに判明していないというのも不思議な話なのであるが、あれは多分自宅でも家族に指摘されて、もう! お父さんは会社でウンチしてよ! なんて言われ、泣く泣くお尻を押さえて会社に駈けこんでいるオジサンであることは想像に難くない。
そしてしかもさらに恐ろしいことに、その毎日続くにんにく卵黄の日々に突然全く異なるウンコ臭が割り込んでくる日がある。
そしてその臭いは「にんにく卵黄なんてまだ普通だった・・すまぬにんにく卵黄・・」というにんにく卵黄を痛罵していた自分に猛省を強いるような、にんにく卵黄が恋しくなるような反作用的な強烈な臭いなのである。
一言で言えばザリガニの死体の臭い。
いったい何を食べたらこんなニオイのウンコが出るのだ!
ザリガニを飼育していたことのある人はわかってもらえると思うのだが、ザリガニも生き物であるからして死ぬ日がいつかくる。
そしてその日というものは人間と違って明確にわからないことが多く、死体解剖の結果死後1週間は経ってますなあ・・なんてことも珍しくはない。
というか死んだことが判明するのはその臭いによってであるということが過半であり、独居老人の孤独死、あるいはアパートの収納ケース密閉型変死体のような寂しさなのである。
まあ心理的な愛惜はともかく、そのザリガニ臭というものは具体的にいうと腐臭である。
しかもザリガニというのはあまりキレイナとこに棲む生き物じゃないからどちらかというとドブのピュアな臭いの混じったような臭いがして、その生臭さと甲殻キチンの発酵した臭いはもう人間の常識の範疇を超えたものになっている。
思い出しただけで吐きそうになるような生臭坊主なのである。
そして、驚くべきことに、その臭いがするウンコをしている人間がこの世にいる。
これはとてつもない事実である。
いや実際には腐ったザリガニを人知れずトイレで産み落とす、我々ホモ・サピエンスとは生物学的に全く異なる生物が我が身辺を徘徊しているのかもしれない。
ホントこのときばかりはうがいなどできるはずもなく、変な粘液をのどの奥から逆流させつつ這う這うトイレから逃げ出したのである。

我々はクサイ時しなくてもいいのにくんくんとさらに臭覚を働かしてしまう。
見てはいけない・・聴いてはいけない・・と思うほどにその反作用としての知覚過敏が研ぎ澄まされてダンボ化かつ家政婦化していってしまうのである。

さてさて、ザリガニ星人の彼は次はどんなウンコで私を驚かせてくれるのであろうか。
結局毎朝「勘弁してくれい・・」といやがりながらも、トイレに踏みこむ時、ある一抹の楽しさを感じたりもしているのである。
こういうのも一種のマゾと言うのかしら。





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