|
第67回
汚辱 2005.1.8
警官がその犬を拳銃でダァーンと撃つと
犬はウンコまみれになり
警官と犬は手錠でつながれたようになって
とぼとぼと街道の方へと歩き出す
そして前方に見えた横断歩道の信号は
ちかちかと点滅して
いままさに赤に替ろうとしていた
少子高齢化というものが叫ばれて久しい。
これから日本はどうなっていってしまうのか・・とおろおろしたり、あるいは大局に立って見よ!なんて愛国的情緒を振りかざす輩というものはどこにでもいるものであるが、まあ言ってみれば大したことはないのではないか。
何を根拠にしているのかよくわからないがそこは当たらずとも遠からずという気がする。
小学生の頃石油があと10年で枯渇すると言われていたり、東海大地震がやってくると言われてはや20年の月日が流れていたり、そういう社会の安易な煽動意識が我々一般人の危機意識というものを希薄化している面は否めない。
確かに人口動態なんかをグラフでぽんぽんと出したりしていると、今後20年のすさまじい老齢化というものは言われている以上にひどい。
戦慄といってもいいほどのすさまじさである。
それでもまあいいやと思うのはただ単に性格上の問題なのか、自分も老齢人口の一員という意識からなのか、自分の子供には申し訳ないけどまったくの無責任な感覚がある。
別に世の中老人ばっかりになっても捕って食われたりしないからな。
しかも話によれば高齢者が選挙民人口の過半数を超す最終列車は既に何年か前に発車してしまったらしいので、もはや何を言っても仕方ないのである。
しかしそうこう言っている間にもその少子高齢化の波というものは着実にわからないように差し迫ってきていて、それは年金や医療の問題などという軒並み語り尽くされた諸問題ではなく、もっと身近に多大な影響を及ぼしていた!というのが今回のご報告である。
結論から言うと、公園がピンチである、ということである。
私らが子供の頃、「公園」というのは周囲3町ほどの地域内紛争を孕んだいわゆる子供の武力闘争の場、あるいは縄張り争いの場であった。
現実には仲良く遊んでいたわけだけれど、しかしそこはあらゆる意味での「子供社会」というものが凝縮された人間ドラマの地獄絵図であったのである。
平たく言うと放課後、あるいは休日になれば公園は野球をする子供やゴム跳びをする子供であふれていたのである。
しかし、今公園と言われる場所に行ってみると、そこはまったく様変わりした公共の場所になっている。
まず、子供はほとんどいない。
いまどきの子供はどこで何をしているのだろう?というくらい公園に存在しないのである。
確かにこれだけ子供を取り巻く世情が悪化すると公園で遊ぶのも勇気が要ったりするのだけれど、そこは子供、私らの頃でも変なオジさんや痴漢タイプはうろうろしていたし、家の中で鬱々と時間を過すなんてあの無限かつ無根拠なパワーを秘めた子供に耐えられるはずもなかった。
今の子供がいかにゲームやお勉強に忙しくとも、自意識がある以上、外に出て来ざるをえないはずである。
それでも公園にいないというのはやはり子供が減ったということなのだろうか。
なにはともあれ、休みには必ず公園にお出ましする幼児携行父兄である私から見て、公園内子供数が減っているというのは事実である。
それでは今公園には誰がいるのか、というと、まあ予想通りというかなんというか、びっくりするような新事実はなくて、見まごうことなきオジ(イ)さんオバ(ア)さんがいらっしゃるのである。
それもただのオジさんオバさんではない。
必ず犬を連れているのである。
私、犬という生き物嫌いではなく、逆に好きな生き物ベスト10に入るくらいに好きなのであるが、ことオジさんオバさんが連れた犬というのはなんとなく、というか、実際少なからず嫌悪感がある。
それは甘やかされた子供がファミリーレストランなどで暴れているのを見るような、あるいは動物園の檻の中で同じ行動を一日何万回も繰り返す精神異常の動物を見るような嫌悪感と言ってもいい、多分に哀れみを含んだ感覚である。
そのような飼い殺しにも似たお犬様とそれをファッションにした自意識過剰な飼い主を見るにつけて、ここ(公園)はてめえらが来る場所じゃねえといってみたくなるのだが、しかしそれも多勢に無勢、隙を見れば話しかけてくるそいつらに対して必要以上に無言になって不機嫌に見せるくらいしか対処法はないわけである。
ともかく子供はいなくなりその自己中飼い犬ジジババが所有成果発表の社交場として公園を使い始めるとどうなるか、というと、そこはまるで犬の公衆便所のようになってくるのである。
もちろん貼り紙立て札で「フンは持ち帰りましょう」なんて書いてあったり、本人たちもビニール袋ぶら下げて持ち帰る意思表示はしているんだけど、そこはほれ、日本の伝統、「群れ精神」、「恥かき捨て精神」が芽生えて、だんだん公園の端のほうから汚れ始める。
そうするともう、ここはフンを置いていっていいのか!という意識がフンを呼び、さらなるフンをして集積せしめ、つまりその公園は累乗的に汚物まみれになっていってしまうということが起こりうる。
そこまでいかなくてもおしっこというのは持ち帰りようがないから、こら!もうダメでしょ!なんて怒りつつも口の端は笑いながらその辺におしっこをさせて行くのは蓋然的当然であるから、畢竟、公園は犬の臭いで充満していってしまう。
とくに大型犬の小便てキツイ臭いがするから彼らが入りこんだ公園は異様な臭いがする。
これはなにも私が勝手に想像を働かせてシミュレートしているのでなくて、実際近所の公園が最近変化しつつあるのを実況レポートしているのである。
この夏まで快適だったその公園は今では犬の臭いが常態的に充満していて、ここから我が一族の足が遠のくのはそう遠い日ではないことは予測される。
こうして公園は一般児童および一般人から隔絶して犬の公衆便所化し、そしてそのフンをさせる飼い主まで寄りつけないほど汚濁化した時点で、遂には放棄されその生涯を終える。
周りにそんな公園ないですか?
子供を持つと公園のはしごしたりするからそういう様々な段階の公園に遭遇する。
まるで森の段階的相変移のように、決まりきった相の推移道筋というのものが公園にも存在しているのである。
近所にその最終形態の公園が一つあって、密かに子供との間でウンコ公園と呼んでいたのであるが、最近ようやくその最終化への流れが判明して、そうかあの公園も昔は子供の声が響いていたんだろうな・・と独り感傷にふけったりしているのである。
このままでいいのだろうか。
少子高齢化が公園を破滅させていくのを拱手傍観していてもよいのだろうか。
全国の児童およびふた親たちよ、武器を取れ!
あの犬連れ汚濁装置どもに裁きの鉄槌をクダすのは君だ!
|
|