海洋空間壊死家族2



第66回

師走   2004.12.24




知遇の生存は有りや否や
腹話術のごとき虚構を
また一年繰り返すべし

知遇の生存こそ知りがたけれ



気付けば今年も残すところ僅かとなって、無意味にもおろおろといろんな方面を眺めてみるのだが、実際身体と意識の巨艦大砲主義的かつ無戦略な稀薄化と、それに比例した時間の進行速度の加速というものを毎度のことながら実感している。
つまり時間が経つのってほんと早くなったなあということである。
しかもこの実感というものは年々強くなっていって、小さい頃の一ヶ月感覚が今現在の一年に相当するようなところまで進行してきてしまっている、というのは本当に心から悲しむべきことなのである。
これは何が原因か、というのはほぼ自分でもわかっていて、それはつまり周囲に対する好奇心が減退しているというところに尽きると思うのである。
自分では同年代の人間より好奇心が旺盛で、知識欲も旺盛であると思っているし、それゆえ周りの人間がアホに見えるというのは昔から変らないのだけれど、そんな相対的基準を振りかざしてみても虚しいのは当然で、たとえば我が子供たちの好奇心の発散と集中を目の当たりにするにあたって、これはかなわんなあという敗北と幻滅の感覚は最近特に強く感じるのである。
ありんこやバッタをあれほど長い間飽きもせず追い掛け回していられるというのはまさにその意識の向かうところが無限であるというところを示唆していて私などは立ちすくんでしまうのである。

まそんなことを言っていても始まらないので、年末に差し掛かって自分時間の中でこの一年振り返ってみて何が面白かったのかということを考えた。
会社の同期で、会うと必ず「なんか楽しいことない?」と訊いてくる男がいて、そういう男には絶対楽しいことはないと思うのでいつも「絶対ない!」と断言してやっているのであるが、今回自分の中で何が面白楽しかったのかなあと考えてみると、それは行事性のものではなくて言葉遊び的なものがまず浮かんでくる、というのは既にして大人の階段を上った人間の悲しいサガなのであるが、実際年末になると今年の10大ニュース!なんて無意味な特集が組まれることがあるけど、まそれに倣ってせんなき我が心楽しませてくれた秀逸なる言葉遊び(結局キャッチコピーなんだけど)というものをいくつか挙げてみたいと思うのである。


『まぜまぜビビンバーグ!』
これはどこかのファミレスか、あるいはステーキ屋みたいな国道沿いに介在する外食産業建造物にはためくのぼりに書いてあったものである。
私、ファミレスというものの存在意義というものに対して、カラオケやボウリングのようなものにも似た疑義を抱いており、つまり行く人の気が知れない、意味がわからない、と常々思っているのである。
だってそうでしょ。
まずその料理というものは何度行ってもがっかり、あるいはぐったり、あるいはげっそり、というような味をしていて、うちの子供なんかたいていのものは一生懸命食べるのにファミレスに行くと表面上は悦んで食べ始めるんだけど、実際にはつついたり切り分けたり、しばらく格闘して、終わってみるとほとんど手をつけていない。
しかも食べ物の躾に関しては厳しくうるさい私でも、全部食べろ!と言えない味をしているので、今度だけだぞっ!と許してしまうような緩慢な味覚対象なのである。
そしてまたこれが不思議なんだけど日曜の夕方なんかになるとほんと異常なくらい店先に人があふれて、10人以上並んでるのはざらで、「ほんとーにそこまでして並んで食べたいかぁ!?」と一人一人に聞いてみたくなる。
つまり味も利便性もない店(ファミレス)で何を好んで食事しなければならないのか?という疑問が我が心の広い部分を蔽っているのである。
ついでに言うとカラオケというのもよくわからない。
ヒトが歌ってる時にカタログ(?)をぺらぺらめくって自分の選曲をするというのは至極当然の行為で、つまり自分以外の歌を真剣に聴いている人なんて誰もいない。
ということは自分が歌っているのを聴いている人もいないという真理もまた正なのである。
それをわざわざ皆で集まって歌を歌い合っているという会の趣旨がまったくもって理解できない。
純粋な自己満足のためなら一人で家で歌ったっていいし車ん中で歌ったっていいし、すなわち、なりきりを見せたい、他人様に聞かせたいという意味であればよりによって人前で自慰行為するようなもんで、言ってみれば恥辱の露出趣味という変態所業である。
ボウリングも一緒で、何がうれしくてオルブォワーなクネクネオカマ投法をヒトに見せなければならないのか。
世の中には理解に苦しむ施設が多いのである。
えー、話が大きくずれたようであるが『まぜまぜビビンバーグ!』の話である。
そういう普段バカにしてコケにしているはきだめ的ファミレス施設に一輪、可憐な花が咲いていたという印象である。
意味的にはビビンバにハンバーグが入ってるんだろな・・とすぐ想像がつくが、このまぜまぜビビンバーグ!という言葉にはそれ以上の強い意識とセンスというものを感じる。
感じませんか?
こののぼりを見付けたのは夏の暑い日の午後だったけど、その後しばらくは何かを混ぜるとき、私は無意識のうちに「まぜまぜビビンバーグ!」とバーのところを気持ち長めに伸ばして叫んでは、対象物を心楽しくまぜまぜしていたのである。

『形状記憶デジタルパーマ』
これは街の中で見付けた。
多分美容室の広告だったのだと思います。
えー、これを見て何か変だな・・と思ったヒトは日本人として正しいと思います。
これからその「変」の因数分解をしていきます。
まず「形状記憶」というのはご存知とは思うけどその元の形というものを基本状態として設定した対象物が何かしらの刺激を受けたり、あるいは環境の変化が去ったりした時に基本状態に戻る、形成し直されるというのが大まかな意味である。
たとえば形状記憶のメガネフレームとかノーアイロンのワイシャツであるとかそういうもの。
いつも思うのは歯ブラシが形状記憶だったら買い替えの必要もなく便利だなと思うのだが誰かそういうの知りませんかいなあ。
それはともかく「形状記憶」とはそういうことである。
次に「デジタル」というのは最近では意味が拡散してきて、デジタル家電なんていうけど、あれがまったくもって「デジタル」なのか?というのはいつも疑問に思うんであるが、まあよくわからない。
私の理解では0か1かの単純化された信号情報によって複雑な情報を構築するというなんだかものすごく億劫な感じのする概念である。
簡単に言うとレゴブロック・ハリーポッターの城をアナログとするならダイヤブロックがデジタルという感じだろうか。
「パーマ」というのはパーマネントつまり永遠というような意味で、なんであの髪をクネクネさせる技術をパーマというのかは前から疑問なのであるが、まず素朴な意味で言うとオスカルフランソワドジャルジェ的な髪の毛くねくねまきまき陰毛化計画のことである。
この3つの概念を複合的に考えた時、まず「形状記憶」と「パーマ」って一緒の意味ちゃいますの?という疑問が提議される。
くるくるまきまき等の形状を髪の毛に記憶させる、基本設定するというのがパーマであるのだから、これは同じことを指し示しており、非常に重婚的である。
次に「デジタル」と「パーマ」の親和性であるが、一見デジタル情報の劣化の度合いとしてみた場合、なじみやすいようにも見えるが、しかしそのパーマというのは髪の毛形状記憶の意味なのである。
あくまでもパーマネント=永遠の意味は薄弱である。
つまり髪の毛の形状記憶というレゴブロック的な、それ以上に、粘土細工的ともいえるアナログ性を有するケラチン蛋白対象にデジタル化を進めようとしてもそうは問屋が卸さないのではないか。
人々を毎朝悩ませ困らせる髪の毛という存在が、そうたやすく0と1という、たった2種類だけの限定情報を受け入れる心の広さをもっているとは考えられない。
それ以上にそんな髪の毛の女性なんてやだ。
『形状記憶デジタルパーマ』の女性とは手をつなぎたくない!
夜一緒に歩いていると知らないうちに路地に引っ張りこまれて奇怪な電子音のなかで意識が薄れていくなんてことになりかねない。
0と1の髪の毛に天使の輪はできないはずである。
そう考えると『形状記憶デジタルパーマ』というものの不誠実な退廃的背景はこの世のものとは考えられない醜悪さを放っていると思われるのである。

『ビタクール』
これはラジオで聞いた。
禁煙の道具らしいのだがその実態はよくわからない。
しかしこのビタクールのすごいのは、使用者のなんと97%が禁煙に成功した!というところである。
煙草を吸わないのでよくわからないのだが、いろんなヒトの話を総合すると、禁煙って大変らしいのである。
周りの人間はもっと大変なのであるが、まあ今回はそれはいい。
禁断症状で喉かきむしるような渇望にさいなまれるそうなのである。
そしてそういう飢餓と絶望の中、ビタクールは禁煙成功率97%、さらにそのうち約2割のヒトは2週間で禁煙に成功した!というのである。
この事実がどれほどすごいのか、素人目にはなかなかわかりにくいが、たとえば、3週間で禁煙できたヒトというのは2週間目の時も禁煙できていたのではないか?さらにいうと1ヶ月で禁煙できたヒト、というのは1日目にも2日目にも禁煙に成功していたのではないか?という疑問が湧き起こってくる。
通常、禁煙したヒトの話って「禁煙して今3ヶ月目だよ・・」という文脈で語られるでしょう。
つまり、このビタクールのCMにおいて、「再びタバコを吸い出したのが2週間後だった」あるいは、
「2週間だけ禁煙できたヒトが2割だった」というのが正しい日本語であるような気がするのであるがそれはうがったものの見方なのだろうか。
そのほかにもたとえば、ビタクールがまずいニセタバコの一種で「2週間しか吸えなかった」という意味にも捉えられるし、どちらにしろタバコ文化というのは倒錯した異常な文化であるのは間違いないようなのである。

まあいろいろありますが、そんなこんな考えてる時が老いさらばえていく身には一番楽しいということが今回言いたかったのですな。
年はとりたくないものじゃ。
よいお年を。





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