海洋空間壊死家族2



第63回

加速装置   2004.11.14




柿 白木蓮のごとき果実は
宇宙の残像流星なり

背に大地抱きしめて
圧巻の空見上げれば
宇宙と一体化したるわが内腑を
漆黒の生物が喝采するらし



新幹線という電車の一形態があって、そのネーミングの官僚的な意味あいとは別に、「シンカンセン」として我々の意識や生活の中で特別な乗り物として君臨しているというのは言うまでもない事実である。
たとえばサンインセンで出雲に行ったというのとシンカンセンで八戸に行ったというのではまったく天と地ほどの差がある。
行った先はなんだかうす曇りの地方歴史都市(すまぬ)のようで、その潜在的価値はともかく、大差はないのであるが、その乗り組んだ運搬機械の無根拠に立ち昇る雰囲気というものによってその旅程自体の印象がまったく異なっている。
サンインセンというと、何となく「都落ち」あるいは「いい日旅立ち」的な、マイナー和音の、転がり落ちていく現実逃避と脱落の人生をイメージがある。
私は新婚の頃山陰へ電車で温泉旅行に行ったけれど、そのイメージはあまり輝かしくない、人目を避けたお忍び世直しタビのような感じで、その旅行の実質としてはまあよろしかったのだけれど、人様にあまり言いたくないような隠微な印象をぬぐいきれない。
実際の天気がどうだったかはともかく、ずぅっと曇って小雨がちだったような気がするのである。
逆にシンカンセンというとその目的地に希望と大望を抱いてズバッと乗り込んでいくというような前向きのラッパのマークのイメージが自然とにじみ出てくる気がする。
私も新幹線で湯布院なんぞに出かけておればその後の結婚生活もだいぶ変ったものになったのではないかと思うのである。
逆にいうと、商談なんぞをまとめに行くのに雷鳥やあずさなんかでいってはならないと思う。
遠回りしてでも必ず新幹線やアーバンライナーを乗りつないで目的地に到着するべきなのだ。
雷鳥で行った先では、たとえそこが常夏のハワイであってもわが心は吹雪と荒波の押し迫った感情が去来して、正常な判断はできなくなるような気がするのである。
名前で左右されるといえば、似たようなものに滋養強壮飲料がある。
内容や効用はほぼ変りはない(と思う)けれど、そのネーミングとイメージで効き目がだいぶ違う気がする。
たとえばタモリのユンケルを飲むのと、ファイトいっぱぁーつ!のリポビタンを飲むのとではその後の行動様式、目的意識が違うような気がするでしょ。
サンインセンとシンカンセンにもそれくらいの落差はあるような気がするのである。

そのあたりの語感的な印象は個人の主観的趣味によることなので何とも言えないが、新幹線に乗った時のその時間短縮感というのかタイム目っ玉号感覚というものが、その移動した距離と比した所要時間の常識的比率を大いに逸脱しているという感覚は誰しも感じるのではないか。
つまり簡単に言うとシンカンセンて速い!すごい!ということではないか。
陸地にうごめく陸生生物として、この電磁スパーク的距離短縮感覚はジャンボジェットの足元にも手羽先にも及ばないような気がするのである。
おなじ東京−大阪間であっても、飛行機と比べて断然新幹線のほうが高性能ピクチャーサーチ早送り感覚は強い。
新幹線で陸地に接したまま2時間半というのは脅威的である。
42.195kmを2時間強で走っていい気になっている人間を尻目に東京大阪間500kmを2時間半で走り抜けてしまうのである。
この加速装置的ちょこまか感は他では味わえないものがある。

それに付随して、いまだに私は新幹線に乗ると年を余計にとってしまう感覚がして困る。
新幹線や飛行機に乗ると、あるいはクルマで高速道路に乗ると眠くなるということはないですか。
その理由は様々考えられるけれども、私はそれは人間の自然な肉体反応だと思うのである。
時間にすれば僅か数時間のことだけれども、実際には、生身の人間が何日もかかる距離を瞬時に何分の一にも期間圧縮して移動しているのである。
つまりその方位磁針的生理本能規模の距離感覚と実際の時間の大幅なるズレを埋め合わせをしようと脳が働くか、あるいは自己防衛に励むかして、結果、眠くなるのではないか、とこう考えているのである。
さらにいうと、時間というものの実質概念がもしかすると、時計が刻んでいるような客観的定量ではなくて、主観的行動物量なのではないかという気がしてくるのである。

まあ、それはともかく、さて本題であるが、シンカンセンの各駅停車は「こだま」、そんでつい最近10年前くらいまでは最速の列車は「ひかり」だった。
まあ、その速さに比例したという意味で順当な名前の格付けではあるまいかという感じはする。
そしてそのころ私は頻繁に新幹線に乗っていたのだけれど、なにかというとぽこぺんぽこぺん言ってはご丁寧に日本語と英語バイリンガル体制でどうでもいいことをアナウンスする、車内のスーパーエクスプレスサンキュウ放送に睡眠妨害されつつ、この次もっと速い列車が出るときはどんなネーミングか・・などというおせっかいなことを、うつろな頭でぼんやりと考えていた。
音<光<・・という順でいくと、今度は物質ではなく、意識の中の概念で「希望」とか「望み」になるのではないか、と冗談でなく予測していたのである。
どう考えても光より意図の方が遠くに到達する気がするでしょう。
そしてご存知の通り、今最速のシンカンセンは「のぞみ」となっている。
これを後出しジャンケンと見るかどうかは別として、今やらねばならない課題はただ一つ、今度出る最速最新型の新幹線の名前は何かということである。
望みというのは外部からの刺激やインプットを受けた上での感情の発露、ベクトルの一種である。
そういう意味では主体の速さという問題だけで捉えると、望みより速いものというのは限られてきて、たとえば「反射」や「恐怖」などの旧皮質一次反応派、あるいはもう少し次元を加速していうならば、「存在」とか「意味」、「かたち」なんてアウトプット以前のものになるんだろうけどそれではあまりに下世話なので、もっとコングロマリットなところで「知恵」とか「執着」とか「三昧」とかになってくるのではないだろうか。
どちらにしろ哲学や宗教の領域に入り込んでしまって、一般的には辟易としてしまう名前が付きそうな感じはする。
しかしそんな名前のシンカンセンはつまるところ終着駅がどこになるのか。
こだまやひかりは、乗り過ごしても最悪博多あたりで降りられるという安心感があるが、「三昧」に乗ってうたた寝でもしてしまったらドえらいことになる予感がある。
少なくとも私は乗るのをためらってしまうな。





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