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第62回
昆明 2004.11.2
肉体は躍動し
精神は高邁化する
汗は輝き
友情は秘めやかに花開く
赤銅の肌と白い歯が
煮えたぎる残照の下
汚辱と虐殺の舞いを舞い踊る
スポーツというと何を思い出すだろうか。
いの一番にNHKのサンデースポーツやスポニチドットコムなんてものを思い浮かべるヒト、というのも実はだいぶ倒錯していて、スポーツとは他人格がやるものを自分は安全で楽ちんなVIPルームで酒飲みながら鑑賞する対象物である、なんてコズルイ思想がすでにして退廃のパンとサーカスなのであるが、まあ大半の人間にとってスポーツは自分から離れたところにある一種のパラレルワールドのようなものである。
自分の不可能あるいは不必要な行動、運動を選手に仮託してそのカタルシスを得るという、よほど人間的な心理現象である。
そういう意味ではスポーツを人並みに鑑賞している私も、実運動競技レベルとしてはご多分に漏れず、スポーツとはかけ離れた人生を歩んでいるのであるが、それだからというのか、極めて私的感覚として、スポーツというものに対する漠然とした鬱屈感と、単純かつ泡沫な反感というものがある。
まずスポーツというものの、スポーツマンシップという言葉に代表される偽善者的な仮面精神が何ともやりきれない気がする。
確かに実際現場でやってみるとその場での協調と友愛と闘争と和合の精神というものはよくわかる。
運動して汗かいた上でのお互いの周囲への尊敬と謙譲というものが、精神開放ストレス解消との相須によって高まっていくというのもよくわかる。
しかしその正しさが正しさ故に発酵して、その価値の無根拠な至高感排他感へとつながっているというのも見過ごせない事実である。
たとえば今私は幼稚園に子供の送り迎えに行ったりしているのだが、そこでの私の振る舞いというものは必要以上に、あるいは実際以上に紳士的かつ協調的かつ偽善的になっている。
そしてその事実は私を赤面させるに足る。
まさにそれとよく似た、そういう場としてのスペリオリティーの高さ、義務感のようなものをスポーツという語感が声高に主張しているような気がして、少々卑屈に過ぎるようだけれど鬱屈とした思いを抱えているというのが現状である。
それじゃスポーツといわずに普通の競技としてみたらどうかというと、これもどうも私にはしっくりこない。
結論からいうと、あまり面白くない。
いや、面白いのだ。
ただし私の都合に向こうが合わせてくれるのならば。
たいがいの競技というものは、短くて1時間、長ければ2〜3時間というのはざらである。
そしてその間中テレビなり目の前のプレイなりに集中あるいはくぎ付けになっていないといけない。
このような暴挙と自己中心的な態度が許されるのであろうか。
スポーツなら許される。
許されると思っているのである。
はっきりいって他律現象を眼前に2時間というのはよく考えてみると恐ろしい軟禁拘束状態である。
うちの娘だったら悲鳴を上げて泣き叫び、狂い死にしてしまうような億劫である。
客観的に自分を眺めたとき、2時間も画面や対象の前でじっとして他人のうごめくのを眺めているという事実が私を慄然とさせる。
しかもである。
たとえばちょっと気を抜いて手元の新聞なんぞに目を移したり、あるいは小用に立ったりして戻ると、その場面の状況というものは「必要」以上にがらっと変化している。
サッカーなんかでいうと実況と解説がすさまじい怒号でゴォォオオウオゥォオオールッ!と叫んでいるのだが、あっしには何がどうなったのかさっぱりでさあ・・という温度差による地熱発電にもなりかねない。
よほど他人監視能力にたけた、ヒトのあら探し大好き人間でないとあれは見ていられないのではないか。
話はそれるが、同様な意味で、映画という興行体系も私には耐えられない。
若いときはまだ見ていられたけど、いま実際映画を2時間おとなしく黙って観ていなさいと言われても、はいそーですかと観ていることは断じてできない。
2時間でも無理という自信がある。
テレビで映画観るのもひどい辛いと思うけど、実際の映画館に詰め込まれて強制的に黙って画面を見るように義務付けられたら発狂してしまうのではないかと思いますな。
いや、観見出したらそれなりに観ていられるのだ。
しかし、たとえば死ぬのなんかと一緒で、その状態になるまでが抵抗と断末魔の歴史なのである。
同じ意味で連続ドラマというのも真綿で徐々に首を締められるような切迫感覚がたまらない。
毎週毎週同じ時間に同じ場所で・・っつうのもやはり精神異常ですぜ。
そういう私が今唯一見ていられるテレビ番組はサザエさん。
あの絶妙な時間の取り具合、たとえば30分間を3話に分けて、そのうちの1話の中でも、場面転換で話が移ろっていくというローリングストーンな手法は私のような人間にぴったりなのである。
モノゴトが3分ターンで移行していくというのが実に気持ちがいい。
実際テレビも含めてメディアの役割ってそういうところにあるのではないかと思うのである。
10のことを3にも1にも縮小して見せるというのが優れたメディアであって、昨今の状況というのは、まさにその逆を行っているようでどうにも食傷気味なのである。
こう考えてくると、最近見てないけど相撲ってそういう意味でまったく私のような人間にマッチしたスポーツである。
勝負は比較的早くつくし、仕切りの場面というのは始まりと終わりをくっきりさせ、不必要な部分を飛ばすことを可能にしている。
さすが日本の国技。
文化と伝統が半端ではないのですな。
国技といえば、ポスト相撲の日本国技とも目される(ていた)日本野球界が昨今喧しいが、あれはもうどうしようもないな。
無様かつ無法不法の経営者どもが、新規参入企業の品性(!)を云々するにいたっては噴飯モノであろう。
そりゃマリナーズ、ヤンキース見るわ。
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