海洋空間壊死家族2



第61回

家畜の逆襲   2004.10.23




頬摺り寄せて
せつなく眼窩覗き窺がえば
怒りと憎悪の竈に赤く
火ははぜちらつき燃えて

脳漿一粒600m先まで
爆裂する黒い牛のためた角は
貴様のその柔らかき白い肌にむかって悦びわなないている

家畜・・・・・・・・・・それは逆襲である
  家族・・・・・・・・・・それは壊死である



ひそやかに世の中は今ペットブームだそうなのである。
いやペットを飼うのにブームに乗ってるもなにもないだろうけど。
結構華々しく身の回りでもペットを愛玩目的に飼育しているヒトが増えつつある。
昔は犬や猫、しかも子供が拾ってきてなどという消極的飼育がメインで、特に男の子なんかは魚や昆虫をお母さんにぶつくさ言われながら玄関で飼育していたのであるが、最近はちと風向きが変って、いい年をしたおっさんが日本に本来いない稀少かつシックで大胆なファッショントレンドの動物を、まさにひそやかに夜中会社から帰ったあとでタメ息なんかつきながら暗がりでかわいがっているんである。
別にそれが悪いことだとは言わないが、そういう動物のかわいがり方というのは私の常態感覚から見て少し精神異常ではないかという疑義が提出されるのである。

昔犬の散歩に行くなんていうと、あまり人通りのない、目に付かない通りなんかを選んで、「こそこそ」とという言葉がシックリくるような気がとがめる感覚で散歩していたと思うのである。
明け方に犬が吠えたりするとほんと申し訳なさに布団をひっかぶり、昼間に近隣住民と顔を合わそうものならすいませんすいませんもうしませんもうしませんと放課後説教されている小学生のように平謝りするのが常であった。
しかし今の飼い主というのは拠ってたつ根本思想が往時とはまったく180°ほども違う。
何が違うのか。
たとえば散歩させているというよりは社長の現場視察に付き従う慇懃な営業部長のような感じ。
あるいは子供の名門学校入学式に目一杯のおしゃれをしてついていき、子供に何かあったら命がけで私が守ります、きっ!という雰囲気の子供第一主義のお母さん。
服を着ている犬というのはこれにあたる。
そういう、ペットとそれをかわいがり尊重する自分というものを周囲の人間や環境よりも優先させる風潮が最近とみに高まっているのである。
その結果何が起こっているかというと、現代の子供に起こっていることがほぼ同じようにペットにも起こっていて、つまり手に負えなくなって捨てたワニが下水道を闊歩していたり、散歩に出たのに帰りは肥満気味の犬を抱っこして帰ってくるなんてことになっているのである。
そこまでしてかわいがり守りたいペットとは一体何ものかという問題がある。

たとえばその肉や毛皮やもろもろの一次二次加工品を目的に飼育する(肥育?)というのは既にペットではない。
そういう目的の動物は俗に家畜といいいますな。
そもそも野生動物を飼いならして身辺に置いたときの目的から言えば、食料安定供給、生活補助、身辺警護が主たる目的であったと考えられる。
それがいつどこから具合が変調してしまったのか。
ペットというのはまず第1に

@自分の完全な支配下にある

というのが絶対必要条件であるのは間違いない。
いつ首に噛みつかれるかわからない、寝ているうちに刺されて死んでしまった、というのではよほど倒錯してないと身近に置けないもんなあ。
またその辺にいるバッタなんかをペットと呼ばないように、囲ったり餌付けたりして身の回りにひきつける力・装置があるというのもその支配の中に含まれる。
大自然を、未知の生物をわが掌中に入れて支配するという非日常の興奮が人間のペット願望の中核である。
遺伝子の変化や技術革新によりこれらが達成された時から人間の動物ペット思想は大きく胎動をはじめたのであろう。
第2に

Aその対象が好きである

というのが十分条件である。
たとえば近くにドブがあって、放っといても群がってきて、もう参っちゃう!というような生き物がいたとして、それをペットと呼ぶには大変な抵抗感があるでしょ。
あるいは、うちに帰ってくると必ずいるんだけど、ドアを開けるときいつも「いないかな・・?」と心の奥のほうで願ってしまう動物というのも厳密にいうとペットではないでしょ(いやいや奥さんあなたのことではないですよ)。
こうしてみると、つまりその2つの要件、@支配A好意というものがペットの成立構成要件となっているわけである。
そしてその2つをよおく見て確かめて推察するに、つまりペットという概念を突き詰めて煮詰めていくと、「自分」というものに限りなく微分されて接近していくのである。
究極の「支配」と究極の「好意」というものは畢竟自分にしか成り立たないのは言を待たない。
いってみればペットをかわいがるというのは、自己愛に等しいのである。
まあそれほど新味のない感覚ではあるような気もするけど、たとえば犬猫をかわいがる感覚って自分に向けられているといわれるとそんな気がする。
ナルシスが泉に映る自分に恋したように、その愛玩動物のつぶらな目や柔らかさや黒光りに自分を投影した瞬間、それこそ自慰行為のエクスタシーオルガズムに包まれた究極の自己愛がそこに完結するのである。
もともと愛玩動物という字面からしてその性愛的特徴を物語っている。
つまるところ、愛撫して弄玩するという限りなく性欲に近い欲望を満たすのに使われる動物というのがペットの定義になるのだろうか。
そういえばオナペットとかトヨペットとか言うしな。
ほんで最近そういう性愛行為をヨソ様の見ている前で、しかも下手すれば自慢驕慢の入り混じったヨタ顔で昼間っからやっているというのが私には耐えられない、正視に耐えない退廃と堕落の世紀末都市なのである。

ちなみにペットボトルというのはペットのように身近に置いて・・ほれほれ・・、あっあっ堪忍して・・というボトルではなくて、ポリエチレンテフタレートというような化学物質の名前に由来している。
また、むかしPETZという不気味な動物の顔からラムネ菓子が出てくるお菓子があった。
あれもどことなく助平そうな雰囲気を子供心に感じていた気がする。
どちらにしろペットという語感がもう既にして大人のいかがわしさを具現化する欲望渦巻く言葉なのである。
そう考えると、むかしペットとして飼っていたドジョウが食べられないという私も、自己愛の強さと、自殺もできない現代的思想にまみれた証左なのかもしれない。





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