海洋空間壊死家族2



第6回

罪と罰   2003.4.18

たれかこの姥の生をばかなしみつるや
たれかこの金貸しの死ぞさやうかるべきや

血とともに世界の動きはじめ
うちふるえる唇がわれとそなたの
むくつけき和合の証とならんことを

人殺しの朝に
われヤドリギの鳥たわむれたつを見る。



腹のたつ職業を3つ、まっ、どうぞご遠慮なさらずに、まあ一杯どうぞ、といわれるなら、えー4月10日現在、腹のたつ順に1.銀行、2.医者、3.NTTということになっている。
ただ、この分野の順位というものは結構激しく乱高下しており、その時々折々に、生活上関連のあった該当分野の窓口の対応というものに直接影響されやすい、という生活密着型の職群Aから選ばれているから、明日はどうなっているかわからないというところがスリリングなサスペンディッドランキングである。
そういう意味では、役所や、郵便局、コンビニ、各料金所などもこの御立腹レースに常時参加しており、日々熾烈なデッドヒートを繰り広げているわけである。
参考までにいうと、一年前には3位が警察であった。
そして今回、これら、上位の職業を一同に集めて並べて、ずらりとシチならべしてみたとき、フと気のつく、ある共通のメルクマールの存在に私は愕然としたのである。
それは、独占的かつ排他的という、言葉にするも腹立たしい非人間的特徴である。
独占して排他を完了した人間、特にその群れは、えてしてサディスティックかつゴーモンティックなジェノサイドを始めることが各地で報告されている。
例えば、引越しして、銀行通帳の住所変更、積立額の変更その他をしようと思うと、「支店が違うから」と何百キロメートルも離れた元支店に行くように突き放すように言われたり、婚姻届の保証人の筆跡がおかしいと因縁をつけて再提出させたり、あたしゃ本当にびっくりしましたぜ。
まるで真珠夫人でたわしコロッケを食べさせられるような、そんな前近代的なイジメがこの世で未だ行なわれていた!という事実に我々は大きな衝撃を受ける。
そんな時代錯誤はなはだしいアンチヒューマンな所行かなきゃいいんだけど、フツーの一般的日本人として、平和な生活を享受するためには、我々はやはり、そこに行かねばならない。
それはアマゾンに向かう冒険家の心理とはまったく正反対の、まるで人食いザメの出る宮崎海岸で、沖に流れるブイに取り残された人間が、暑さと渇きに耐えかねて海に飛び込む気持ちにも似た、後戻りのできない、恐怖と絶望に満ちた、後ずさりと転進の進軍ラッパなのである。
要するに、それぞれの窓口、営業所が気に入らなかったら、はい、次の所、というわけにはいかないところが、彼らをますます増長させ、私をいよいよ萎縮させる。
彼らの前に立った私はしばしば、あまりに小心者的に恐懼している自分に気づき、困惑するのである。
ふつー、愛想悪くてサービス悪くて、商品悪い店なんてのは、敬遠されて喧伝されて、そのうち知らないうちに消えてなくなっているのが関の山なのであるが、彼らは、法律によって代理のきかないように規制されているため、どんなに非道の対応をしようが、どんなにむごたらしい仕打ちを行おうが、その責めによって競争原理のもと、振り落とされて淘汰されていくというようなことがまったくない。
逆にいうと、彼らは歩行者天国の歩行者のように、あるいは学園天国の小泉今日子のように自由かつ気ままなのである。

しかし天国ともヤユされるその独占業界群においても、最近では時代の潮流がゴゴゴォォと動き出しており、その環境の変化が散見されつつある。
まず、役所と郵便局は、体験上かなりイイ感じになってきている。
年配の窓口の奴はやはり駄目だが、若いのが、たぶん終身雇用じゃないんだろうな、笑顔ができているという感じで、イラつくことは以前ほどなくなった。
特に郵便局では、今年からの公社化もあるのか、こちらの要望がすんなりと通る事例が多発しており、その対応の良さに、出口の自動ドアの向こうから笑顔の自分が歩いてくるのをハッと見かけたりして、新鮮な驚きをともなった喜びがある。
また、これは向こうさんの変化ではなく、こちらの変化として特筆する必要があると思われるのだが、警察にもそれほどの憎悪感がわくことがなくなった。
以前は取り締まられる側の人間の代表として、法に触れない程度のイヤガラセまで主導して、扇動していたのが、今の心境としては「取り締まってもらう」という感覚に変わっており、これなーんでか、と考えると、ひとえに子供ができたからですな。
悪い奴はやっつけちゃって!という、ややもすると応援気味の姿勢にいつのまにか変化しているのが、おもはゆくもこそばゆい新感覚である。

さて、腹立ランク第3位のNTTであるが、あいつら、なんも努力してないのに金だけはとっていて、たまに用事があってこちらから電話するとすこぶる対応悪い、という第三セクター根性まるだしの、士族商売から抜け出せてないその態度が腹立たしい。
例えば、ウチなんか電話をあまりしない家だから、一カ月なんも電話しない月があるんじゃけど、来た請求書を見ると、何や知らんうちに数行の基本使用料みたいな明細があって、自動的に3000円くらい引き落とされているというところが、透明性納得性ともに低く、膀胱に溜まっていく生活排水のような、しずかに満ちていく怨念というものが感じられる仕組みになっている。
JRなんかも一緒で、もとは税金やらでできたヒトの資産を使ってるのに、何の挨拶もナシに、当然!という顔をして儲けているのも、共通する腹立ち職業要素の大きい部分を占める特徴である。

第2位の医者というのもまったく鼻持ちならない職業で、人の弱っているのにつけ込んで、やたらとえばり散らして、挙げ句の果てには人を叱りつけたりする、とんでもない小悪党である。
こっちも当面のライフサイクルの方向性、命運を握られていることもあり、平身低頭、ヘコヘコしてみたりするのだが、よく考えてみると、彼らは対価としてサービス料金をとりたてており、明らかに顧客としての我々のほうが立場としては上なのではないか、というフランス革命のような根元的疑念がふつふつと湧出してくるのである。
さらに彼らが何をしているのか、冷静に観察していると、なんてことはない、風邪をひいて真っ当な思考能力のなくなった人間に、「これは風邪ですね」などと当然のことをこれまた当然という顔をしてのたまい、「今はこれが流行りですからこれで様子を見ましょう」などと、子供でもできるようなお医者さんごっこのような判断で薬を出して、はい終わり、というようなことをママしており、ある意味、詐欺行為ではないかと私なぞは思い出しておるのだが、いかがなもんなのであらう。

そしてやっと本題に入ってくるわけでありまするが、栄光の第1位、銀行業界である。
医者を除けば、サービス業である他業種、役所、郵便局が、遅々たる歩みではあるが、この進まない進まないといわれる構造改革後進国ニッポンの世を、一歩一歩前に進み出しておる中、昔とあいも変わらず腹立ち業務の伝統を、かたくなにひとすじに守ってきているのが銀行業界なのである。
まず基本的なところで、彼らの血流を脈々として流れる、その根幹をなす思考というものがあって、それがすべてのことを決定づけているのであるが、それはもうなんといっても、「ヒトを馬鹿にしている」ということである。
たとえば、最近、窓口に行くのもイラつくので、ATMでなんでも済まそうとATMのコーナーに行くと、定年3、4年前、窓際風情のおじさんが、なんだか慇懃無礼な感じで案内に立っているのが目につくが、あの人らの行動を見ていると、アホで無知なものどもを導いてやるという牧羊犬的態度があからさまで、よくない感じである。
必要もないので、たいていの人は彼らを無視しているのだが、たまに、オバちゃんがわからないわー、どうしましょ、というウロウロモードでいるのを見つけると、あざとく見つけて、ホントうれしそうに「仕方ねえなあ」という感じでエバっているのが、何やら哀れな心象風景である。
言うもせちがらいけど、役人と銀行の人々、またはその周りにいる人間、えてして古い人間は、「オカミの仕事」という意識が過剰であり、その仕事に就いている人を見たり、聞いたりすると(自分たちのこともね)まあ、さすがね、おカタいわね、日本のためにがんばっていただいて、本当に、ホントーにありがとうごぜます、まっぐっぐ。というような卑屈一辺倒の意識が露呈してしまい、それが彼らをますますのぼせ上がらせる結果となっているのである。
しかし言っちゃ悪いけど、普通の行政組織を持つ国はともかく、我国においては、役人や、銀行に行ってる人なんてのは実際、知り合いにもいて(彼らは別として)何となく気はひけるけど、馬鹿ばっかというのが私の生きてきてきた中での感想である。
アメリカでは証券会社やファンド関係に入れなかったアホが入るのが銀行だという話も、ひとづてながらまこと納得いく話で、リスクをとらない融資=誰でもできる金貸しというのが銀行の正体なのである。
特に日本では「土地担保の融資業=銀行」つまりまったく頭を使わないで、したり顔でえばりながらカネを貸しているのが彼らの実体であるから、その顔がアホづらに見えてくるのは当然でありますな。
しかしそういうアホの子たちの顕現たる、末梢機関である、ATM周辺や窓口の人間が、我々、店頭をおとづれる人間を客とも思わぬ態度で、はい、次、という目線で人をにらみつけたりするのがどうしても許せない。
彼らは我々を客とは思っておらず、番号札を握り締めた業務順番待ちの人々であると思っている。
顧客への奉仕というよりは、配給、布施、ほどこしといった言葉のほうが彼らの実感には近い。
だから、順番が回ってきて、やれやれとほっとしたような顔のお客Aが、当該業務に当然用意しておくべき書類、物件等を用意していなかった場合、彼らは、あからさまに、はーい、今度は持ってきてね、次、はい、次の人!という態度をとるわけである。
その辺りの感覚というのは小市民的な、小姑の小言、繰り言のような感じで少し気恥ずかしい感があるが、しかし、彼らは一方で、濡手にアワのまことキタナい商売を続けているのである。

たとえば、流動性の確保などというまことしやかな名目上の目的を隠れみのに、日銀からタダ同然でカネを調達してきて、それを何に使っているかというと、国債やら何やらで淫靡にリザヤを稼いでいる。
簡単な図式に示すと
日銀(国のカネ)→銀行が無利子で借金→国が銀行からその金を有利子で借金
となる。
極論すると、日本国民が銀行に預けた自分のカネを、自分で借金して利子を払っている、という馬鹿げた事態になっているのである。
銀行としては、他人の財布からカネをちょろまかして、それを元手にやりたい放題しているというのが現状である。
しかも、国債というのは考えることをやめた資金が向かう、退廃的後ろ向き資金運用である。
普通に調達した資金なら、国債なんぞではコストに見合う差益が生めないはずで、もっと利回りのいい債券や投融資に向かうところ、タダで手に入る他人のカネならこれでやっときゃ楽だし、損もしないという、馬でも鹿でもできる、あざとくも単純な背徳的商売を銀行は行なっているのである。
わからないように誤魔化しながら、コズルイことやっているという点では、不良債権、公的資本注入というのもうまく考えたなあと思う。
敗戦を終戦、デブをポッチャリと言い換えるレトリックがここにも見られるわけである。
不良債権は貸し倒れ債権、資本注入はバランスシート上の経営政策の失敗埋め合せのことだろ。
ここの所で注目すべきは、銀行業界にその失敗に対する真摯な反省やそれの元となる責任というものが微塵もないことである。
彼らは自分の判断ミスで損傷してしまった債権、資本に対して、日本国民に代わって、あくまでも「仕方なく」処理したり、注入しているような素振りをみせる。
ややもするとそこには、セーラームーンのような正義の達成感もかいま見えるのである。
貸したカネが帰ってこないのは貸した先の会社の経営が悪かった。
バブルがはじけたのがすべてで、天災だから仕方ない、その埋合せに税金使ったって当然じゃん。
ワレワレは寝ないで仕事しているんだ!
そういう態度が見え見えなのである。
あのなあ、そんなこと言って自己陶酔、悲劇のヒロイン気取ってるのは君たちだけで周りの人はみんなため息交じりに、アホの子供を見るような気分であなた方を見ているわけですわ。
その昔、バブルの頃、担保である土地の値段を一生懸命釣り上げたり、たのむからカネ借りてくれ、投資しろと、その辺の奥さん方や、零細自営業の子供にまで電話して説得していた姿を、私はあんたらみたいに痴呆症のように簡単には忘れられない。
また、不況下でサービス残業、夜遅くまで頑張っているヒトなんて掃いて捨てるほどいる。
いやらしい話、ちっとも税金払ってない赤字企業で、そんな銀行みたいに給料高いところフツーありませんぜ。

そこまで言うなら銀行側としては何をしたらいいんですか、どこまであなた方に頭下げたらいいんですか!と言われたら(言わないだろうが)それは、
最低、土曜日日曜日は営業しようね
ということである。
直接金融が主流になるであろうといわれるこれからの日本、あんたらの相手をしてくれるのは、個人であって企業ではないということをよく考えてみるべきなのである。
個人相手の民間サービス業が土曜日日曜日やってなかったらどうしようもない。
つうか、今現在やってないというところが、銀行業界の、我々日本国労働者に対する意識というものを如実に物語っているような気がしてならない。
まあ、手数料ほしくて土日やってないってのがホンネなら、この際、年中無営業、一年中休みにして、毎日手数料取れるようにしたらいいのだ。
そういうアホの職業なんだから。





戻る

表紙