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第57回
循環は止まらない 2004.9.21
断面積0.000015uのタングステンの抵抗300Ωの配線の中を
1秒間に流れる電流の不可逆の質量を
1Åとするならば
人間の子供一人の
小腸ひと括りに存在する全毛細血管から
1分間ににじみ出る桃色の血漿の負の電解質の総量xは
どのようにあらわされて世の中に納得されていくのだろうか
あるAという構成物に対してまったく相容れない構成物Bというものがあるとする。
そしてそのAとBというものはまさに磁石の斥力のように反発しあい反目しあってどんなにくっつけようと努力してもついに融合混交することはない。
この間昼飯を求めてうろうろしていたとき「オムソバ定食」というのがあって、なんだかいやな予感はあったけど、ヤキソバだけ頼むのも癪な感じなので注文してしまった。
予想通り大量のヤキソバに大量のチャーハンが添えられていると言う土方or学生タイプのオール炭水化物がでてきて、午後はまるまるお昼寝大会になってしまったのだが、このヤキソバとチャーハン(焼き飯)という組み合わせも、全人類規模で否定されるべき過ちとしての反要素的食べ物の一種である。
似たような脂っこい食べ物同士でありながらというのかそれだからというのか一緒によーいドンで食べ進むのはなかなかしんどいものがある。
それでも一般社会に存在するというところはまだ人類の許容の範疇に入っているのだが、趣は変わってたとえば、ゴルゴ13とハローキティ。
陰影の激しい劇画風キティちゃんというのも見てみたい気はするけど、実際にはゴルゴのストーリー内のささいな小物としてでもキティちゃんというキャラクターはありえないという、生じたとたんに崩壊するという一種の反物質的な組み合わせである。
100%濃縮還元果汁ジュース(加糖)というのもよくわからない。
まず100%何をしたのか不明確で、さらに濃縮して翻って還元するという謎のジグザグ行為を繰り返している。
言ってみれば「貞淑な団地妻が繁華街にお稽古に出かけた」というような感覚である(自分で書いててよくわからんな)。
100%そうかもね!という言葉にも同じような感覚がある。
「そうかもね」というのは通常の感覚では50%をきる達成可能率を持つものに対して使用される、不確実性を表す用語なのであるのにかかわらず、このように「100%」と組み合わせてシブがき隊に歌わせちゃうというのが、強姦気味な勢いで乗り切るバブリーな「群れ」的時代背景を感じてイヤーな気分がしてくる。
しかし今考えると「ギンギラギンにさりげなく」、とか「人参娘」とか、9割方不気味で不可食理解の単語の組み合わせの歌というのがあの時代は氾濫していたなあ・・とまったく関係ないけど思い出されてくる。
子供が唄う童謡には時代の予言が託されていて、たとえば鎌倉幕府が時代の実態と合わなくなったとき妖しいようれ星の唄が流行ったとか、江戸時代が終わるときエエじゃないかが大ブームになったとか、そういう話があるけど、まったくあの時代の日本人の分不相応な暮らしと思いあがりの思想を「たのきんトリオ」が全力投球で的確に表していたのかと思うと、ジャニーズも実は秘密結社的なよこしまな大義を抱いて変遷しているのかと疑わしくなってくる。
話がそれたが、えー、今回何がいいたいかというと、そういう相容れない組み合わせのAとBという反重力的関係性が、あっては困るなくても困るという外食中食の分野に既に浸透して、放置された結果、その発酵ただれ具合はとんでもないことになってますぜ、ということを全国の皆様に告知申し上げたい所存なのである。
既に皆様も折に触れて目にしているはずなのであるが、実際それがどうもおかしいんでないかというのが私個人の趣味の問題なのか一般的には受け入れられているものなのかと思い悩んでいるというのが実情なのである。
食べ物という私にとって神聖かつ不可侵の分野にも納得性の低い単語パズルの傾向が止まることなくじわじわ侵食しているというのが私には耐えられない。
具体的に言うと、まず古いところでポテトサラダに入っているりんごのきれっぱし。
さらにマカロニサラダに入っている缶詰のみかん。
あれはいったい誰がいつ何の目的をもってあの甘酸っぱい果物をジャガイモ的塩味ふわふわ感のなかに投入しているのか。
噛みしめれば場違いな果汁がとろけだし、ジャガイモの穀物感に絡まって、まさにゴハン食いながらコーラを飲むような感覚がじわじわと浸潤してくる。
まったくふさわしくない組み合わせなのである。
あの食べ物を前にしたとき、その反物質の呉越同舟的存在意義と食処理完結のための論理的構築をいかに為すべきか、私の大脳新皮質はいくたびもどぎまぎとして、結局は、分離解体して食べろ!食べるんだジョー!という左脳の感傷的命令を、食べ物に対する感謝の気持ちを前面に押し出す日和見主義的右脳に押しきられて、ただ黙々と無言になって不気味な味のジャガイモを食べるのである。
あれをおいしいおいしいと悦び勇んで食べているヒトがいたら教えて欲しい。
継続的に作られているところを見ると、あれは一般的にはグッドな組み合わせとして認知されているのか。
皮肉でなく、私はあれをおいしく食べられる心構えを知りたいのである。
心構えというのは重要で、たとえばアボカドをフルーツとしてみたら絶対食べられないけれど、あれを野菜的な、しょうゆをかけて食べるものとして構えて食べるとほんと美味しくなるから不思議である。
あの不肖の果物(りんごとみかんね)もまったく違う心構えで食べれば実に美味しく食べられるのではないか、と最近そう思い出しているのである。
私は麺類が好きで、お昼ご飯は一週間のうち最低4回はうどんかラーメンかスパゲティを食べているのだが、これも外で食べていると不思議な組み合わせのものを出される可能性が近年とみに高まっているのである。
まずそうめんにサクランボ。
さらに冷麺にスイカ。
これはもう一緒に食べるという前提さえも吹き飛んでいて、食後のデザートという切迫した供給意図がまずありきで、つまり口直しにおひとついかが?というようなサービスのようなのである。
しかしそういう一見気のきいたような態度のわりには、わざわざそのために皿をわけるのも面倒だし・・かといって主菜を食べ終わった後で改めて出すのも面倒だし・・という雰囲気が濃厚で、つまり「面倒」という退廃的かつ後ろ向きな理由だけで一緒に載せてサービスしているのがほぼ明白である。
向こうの意図としては、主役主菜であるそうめんや冷麺を食べ終わったあとに、ふと気付くと残されて彩りも賑やかな甘ーいデザートを、ほれ、召しあがれ!というところがその根本に流れる仕業なのである。
しかしですな、たとえばそうめんはあのサクランボ缶詰のけばけばしく不自然な赤色3号の色素が沈着して、その付近の味覚ははっきりと甘いお子様テスター嗜好を指し示しており、一言で言ってその食物の味と品格を台無しにしている。
冷麺のスイカなんか下手するとあのじゅくじゅくに水っぽいスイカの汁と共にタネまでが零れ落ちていて、見た目でいうとなんだか夏の海の家の残飯のような風格さえ漂ってくるのである。
そしてその底流を流れる思想として、「胃の中に入りゃ一緒じゃん」という文化的生活者日本人の美徳感覚として許されざる傾向が見られるのは言を待たない。
行きつくところ最近家電屋に売っているバイオ生ゴミ処理機のような機械で食べ物を粉砕半消化したものをスタンドバーで食べさせる時代がくる端緒となっていると言っても過言ではないわけである。
パイナップルという果物も本人に責任はないものの、あまり喜ばしくない食べ物に混ぜ合わされて出てくる確率の高い食べ物の一種である。
昔小学生のとき、給食でハムステーキの上にパイナップルの缶詰の輪切りが一切れ載っかった「ハワイアンステーキ」なるものが出てきた。
誰かなにかを間違えたか、あるいは気の狂った給食のおばちゃんが紛れ込んだかと脳内で激しくその眼前の風景を糊塗隠匿しようとしたのが思い出される。
ハワイアンてなんなのさ。
縁日で出るかき氷にハワイアンブルー(今もあるのかな)という足尾鉱毒事件もびっくりのけばけばしい青さのシロップのが昔あったけど、それに勝るとも劣らない無責任なネーミングである。
さらに許せないのは酢豚に入っているパイナップルの小片。
いかにもパイナップルとは異なる、たけのこやきのこのような、歯ごたえのよさそうな未知の具材のふりをしていて、期待に胸膨らませつつ食べると甘ーいたんぱく質分解酵素でした!ふははは、裏切ったのではない、表返ったのだ!という裏切りと背徳の実態は既に犯罪的ですらある。
中学生の修学旅行でさっきまで優しかったバスガイドさんが、荷物を取りにバスに戻るとアルコールを飲んでクダを巻いていたというような、あるいは、岸朝子とフレンチディナーの予定が、急遽小林カツ代との飯盒炊飯(もちろんカレー)に変更になったというような、急転回して磊落していく三半規管の立ちくらみのような感覚がある。
あのハワイアン酢豚を作っている人というのは
1.昔から入ってるから
2.何となくパイナップルがあったから
3.おいしいから
のうち一つ答えを選んで早く日本国内から立ち去って欲しい。
そうすることで日本の食文化は格段に向上していくのは間違いないのである。
そうはいっても組み合わせの妙というのはどこからやってくるかは見当がつかないというのも真実である。
昔食べたビーフバーベキュー味のチョコスナックというのはえもいわれぬ美味しさを示していたし、チーズに甘いジャム塗りたくったやつというのも最初の抵抗感はなんだったのか・・というくらいおいしいものである。
そういう意味ではそのうち生ハムにくっついたメロンやワカメサラダのくっついた砂糖揚げパンなんつうのも美味しく食べられる日が来るのかなとも思うけど、実際どうかといったらやっぱり私は、状況状況にあった、個別に尊重すべき愛すべき品々を別々に美味しくいただきたい気がするのである。
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