海洋空間壊死家族2



第53回

日曜日   2004.7.27



時にしたがいて心は深く重く沈み
暗澹たるぬばたまの冥き渕にわれ入水す

あくればまた追従と虚栄の日輪昇り
撲殺と絞殺の腋汁こそしたたらめ

いまはただ必定に背き
迫りくる懊脳ふりはらいて
魚介の夢なんみばや



タラちゃんとして生きるか。
イクラちゃんとして生きるか。
カツオとして生きるか。
男というのは人生の節目節目の基調判断において、あるいは大局的な自らの生き方身の処し方において常にその三つの選択肢を胸に峻巡しているのであるといっても過言ではない。
一つ目のカード「タラちゃんとして生きる」、つまり物事の正しい方向性を知覚しながらその道標に沿って進んでいく朱子学的な生き方。
そこでは自分の損得や都合というものは隅に追いやられて、その客観的に「正しい」ということが目的化するという、ある意味いたましくもいじましい考え方に基づく。
二つ目のカード「イクラちゃんとして生きる」ということは、自分の欲望と主観に最大限の価値を見いだし、つまり勝手気ままに生きること。
人の被害や感情の損ないなどは目に入らない、赤子の精神、ある意味幸せな猪突猛進型である。
三つ目のカード「カツオとして生きる」はほかの人格の主流の概念を尊重しつつ、しかし基本では自分の損得を計算して最大限成果を得ようと計算高く生きていく生き方。
この三つのカードを場面状況にあわせて切り方を図る、判断していくということが男にとっての生きているという手段と目的、意義である。

たとえば昼飯を会社の人間と食べに街に出たときのような、比較的平和で怠惰な一般的シチュエーションにおいてもこの三枚のカードはいづれかの形で活用されていく。
まずそのランチメンバーの輪の中に独り暮らしの男がいるとする。
するとそこには、野菜を最大限使った和定食がよいだろう、できれば魚が食えるところがいいだろう!というあくまでも正しい科学忍者隊のような差し配気配りというものが存在する。
しかし一方で、昨日も家でサバの塩焼きだったからできればラーメンとかスパベッピとか、さういう非日常の食べものが食べたいなあ・・!という欲望と激情のトーマスという人格もほぼ同時に存在する。
そして、ここでタラちゃんなら迷うことなく近所の「青菜」という和食屋に直行するし、逆にイクラちゃんなら何を顧みることなく、最近できたあの四川ラーメンの店いこいこ!というふうな行動が顕在化する。
しかしある意味どんな人間でも、その両極端な行動をとらずに、今日は麺が食べたいなあ、なんて口ずさみながら、「うどんでも食べに行きましょうか」などという、足して二で割ったような、中庸の提案をしているのではないだろうか。
さらにたとえば、知り合ったおネエちゃんとまあいい感じになっているとする。
ここでは既婚者あるいは定まったパートナーが存在する男と仮定する。
知ってか知らずかうれしたのしいことに向こうも気がないわけでもないふうである。
その場合でもタラちゃんならまず間違いなくソ知らぬフリをするだろうし、逆にイクラちゃんならその日のうちにも飲みに誘って、隙あらば!というぎんぎらおめめの淫獣バブーと化するであろう。
しかしカツオ的生き方をするならば、気のあるフリは見せておくけれど、実際のモーションは向こうがかけてくるまでは、あるいは周りの状況によるチャンスがくるまでは純情な姿勢を保つという行動をとる。
そしていじましくも根回し差し回し、策をめぐらして挙げ句の果て他にとられていってしまったりする訳である。
そして世の中の人間というのはもう圧倒的にカツオ的生き方で満足思考停止しているに違いないのである。
なんだか長年の日本人としての暮らしが極端と極端の中間を探してそこに安住する安らぎというものを刷り込まれていて、そういうどっちつかずの中途半端な態度をとってしまう。
つまり、電車の席に目分量で等間隔に座ってしまう、あるいは四条の河原で等間隔にすわってしまうあのあやうさで生活の全てが回っているのではないだろうか。
だれもが感情を押し殺して、ひきつった愛想笑いを浮かべて、そのうえで無責任な「アイダ」をとった判断行動がとられているのではないか。
そう思うとぞっとする。
誰の意にも染まない、誰も満足していないような、しかし、まあ誰も反対できないような欲望と正義の山の谷間の隘路に道を開いて、そしてワイルドさを犠牲にして非日常性を勝ち取ったというポーツマス条約のような後味の悪さで人生は延々とつづいていくのである。

ここで沸き上がってくる設問というのはつまり、こんなカツオ的生き方をしていていいのか?そのドグラマグラなカオスを解決して、さらにそこから発展した、人生を楽しく有意義に生きていく術は、タラオとイクラ、果たしてどちらにあるのか?というところである。
まあ、一般的に考えても、人生一度きりなんだから、無理は承知でイクラちゃんの本能従量制の生き方をすればそれで万事解決!という上滑りな考え方もあるけれど、まあもう少し深く掘り下げて考えてみるのである。

タラちゃんというのは、果たして幸せな生き方なのか。
タラちゃんという生き方は、大人がああいう生き方をしていたらまさに無気味なほどに素直に「正しい道」というものを踏み外すまいとして生きる方針であるが、果たして、タラちゃんになぜあれほどの正義と王道が植えつけられているのかをまずよく考えてみなければならない。
だいたい彼の周囲にいる人間というのはたいして正しい人間はいないような気がするのである。
波平は釣りにいっては魚屋で魚を買ってきて威張ってるような男だし、マスオは麻雀に行った夜のアリバイをアナゴ君に頼んでしまうような男だし、カツオは人のヨワミを帳面につけてこづかいをせびるような男だし、まったくといっていいほどひどい男どもに三方を囲まれているのである。
タラオはそれを反面教師に生きているのかというとそうでもなくて、その三人の年増をそれなりに尊び、敬っているようなのである。
それなのにどうしてあれほど正しいのか。
それはその三人の男と、その関係する女性がタラオに男というものはこういうものである、という偶像を掲示して強制しているとしかいいようがないのである。
自分にないものを思想的に柔軟な幼児タラオにおしつけてある種のカタルシスを得ているといってもいいだろう。
つまり実社会における必要不可欠な「犠牲」の一種なのである。
それは、何の根拠もなくいじめの対象に選ばれたM村さんのような、あるいは同和地区のバス運転手のような、あまねく一般の低能な人間という生き物の溜飲をさげる、あるいは道化という制度保障にも似た、他人の自己満足のための存在といってもいいであろう。
そういうタラちゃんの役割を演じて生きていく、ということはそれを知っても知らずも、あまりに悲しくあまりにおろそかであるといわざるを得ない。
正義というものはえてしてそういうものであるということを我々は肝に銘じていなければならないのである。

それでは、だからこそというのか、消去法的に、イクラちゃんたるべし、というのは日本男児として受け入れられる命題なのであろうか。

おもうに、赤ちゃんと大学生以外はそれをやっちゃあおしまい、である。
この、赤ちゃんと大学生に共通するのは社会からの隔絶である。
イクラちゃんも、大学生もかっこいい。
やりたい放題やっても根ぐされしないさわやかさがある。
社会や思想やイエというものから隔絶しているから、責任というものがまるでない。
そして本人もそれを自覚しているからある意味さむらいのような潔さがそこにはある。
しかし中高生や、社会人がそれをやってしまうと、途端にみすぼらしく無惨にみっともない。
それはよく分からないけれど、何かに所属している、という責任に伴う甘えというのか、言い訳、というのか、なんだか情けない言い逃れの道がそこに存在するような気がするのである。
唯一神教的な人間の特徴といってもいいだろう。
つまり、「大義」あるいは「迷惑かけられない」という、所属体への義務と責任のウラハラに、明確に、「何か迷惑・不都合があったらこちらへどうぞ」というような、他力本願にも似た欺瞞を少しく持っているはずなのである。
そのような人間が、イクラちゃん指向でやりたい放題、電車で床に座ったり、タバコを歩きながら吸ったり、戦争おっぱじめたりすると、そこはもうソドムとゴモラの退廃が現世にあらわれいずるという次第に相成るわけである。

あれれそれではタライクラカツオ三つの全てが否定されてしまったではないですか、というあなたはまだ甘い。
ここに、まるでドラマの終盤に登場する初めて見た人間が真犯人だった、というような火曜サスペンスのような落とし穴が待ち受けているのである。
つまり、ノリスケである。
あの男は「サザエさん」という人間ドラマにおいて完全に浮いている人間である。
波平とは少し親しいが、ほかの人間とは上っ面でしか相手をしてないし相手にもされていない。
へたすればそのかりそめ感は家族であるタイコやイクラともしっくりいっていないふうに見える。
突然現れては、知らぬうちに消えている。
だいたい、日本アニメ界において、声優が変わったのを気にされてない人物ナンバーワンなのではあるまいか。
それでも誰かに嫌われたりしているわけでもなく、やっぱり週に一遍は画面に現れて「まいったなー」とまったくまいってない風情でヨワってみせる。
これは何なのかというと、つまり次元を合わせない、というところである。
他人というまったく異なる人間と同一の世界を持とうとするからそこに破綻が現れるのである。
社会というのはその幻想の一端である。
いくえにも重なる、ねじれる異次元を一つの次元に集約するところから人類の悲劇ははじまる。
正義とか、自己とか、自らのフィールド風呂敷を広げるといろいろ問題が起きてくる。
私見であるが、須らく我々はノリスケのごとく、邂逅する人間宇宙全般にたゆたう、蝶のような心の余裕を持つべきなのである。
そういうわたくし実に友達少ないんだけれど。





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