海洋空間壊死家族2



第49回

化粧   2004.6.10



ずるむけの赤なすにすりこむ
がまの穂の
骨までさしこむような痛点が
よどんだ精神を覚醒させ
泥に隠れた蓮の花をやうやくはなひらかせる
口は耳まで裂け目は一文字にきり結ばれむ
はなの雪のはなの中こそ黒く赤くめぐりおどらめ



前々から電車に乗るってのは好きだ。
それは電車の時刻表を見て欲情する様なレベルの話ではなくて、たとえばなんだか自分が明確な意志表示をしなくても、(もちろん意思の力で目的地に着くことはできるけれど)のべつくまなしにどこかに連れてってくれるという半自動運行的な「旅」としての非能動な仕掛けとともに、その乗ってる主体である人間の観察が楽しくてたまらないというのが主な原因「であった」。
とくに結構な人数の老若男女が、ある地点へと向かうという共通の目的と方向性を持って同じ空間に集うというのはなかなか滅多にあることではなくて、たぶん長い人生の中でも、臨海学校や春の旅行などのイベントを慮外すれば、電車に乗るときくらいしかないのじゃなかろうかと思うのである。
とくに、田舎の、車社会である群馬県で育った身としては、その集団登校的ツールインフラ「電車」自体が希少性高く、あれだけの人間を採取・集積した、他人である人間どもをじっと観察できるヒトウォッチングの会場というのも新鮮なわけである。
ま、端的にいえば通勤ラッシュや人の群れにおったまげたっつうことだいのう。
ただしそれは多分に吐き気を催すようなネガティブな、例えば酔っ払いの、電車せましとよろけ転げる姿であったり、よだれをたらしながら大口を開ける人形焼きの様な(どんなだ)顔をした女であったり、決して見目麗しいモノではなかったりするけれど、時たまの瞬間停電にはっとすると、月夜の下で半身になって青白く光る携帯画面をうつろに眺める燃えろいい女が現出したりして、キノコ狩りや虫捕りにも似たわくわくするようなエンターテインメント空間であったりする訳である。
そういう千載一遇のチャンスをみすみす逃して電車で眠りこけてる人間を我が精神世界では「うすのろま」と呼ぶのである。
ところでそれらの動的オブジェが、その対象物観察が、楽しくてたまらない原因「であった」という過去形になっているのは最近、そうでもなくなってしまった、という事実を如実に表わしているのであるが、それはなぜかというと、その楽しさと表裏一体の人間の欲望のグロテスクーの一線を踏み外した、そこまでしたらいけんよ・・というレベルを人類が踏み越えてしまったからである。
えー、具体的には何が言いたいかというと、あの電車座席で「化粧をする行為」、というものがホント河合奈保子もびっくりのエスカレーションとスタグフレーションとハレーションを起こしてしまった、と思うのである。
以前から、電車に乗ってコンパクトを左手に、朝の化粧30分コースという人はいたけれど、最近頓に増えていると思わないですか。
一車両に一人ではすまない、大量消費社会における大量車内化粧時代に突入してきている。
我が通勤電車にもそれは黴や細菌のように増殖してきていて、カガミをのぞき込んだら命がけの、小一時間、何をするでもなく熱心に自分の顔見てるヒトというのが常駐していて、おもしろくて、しばらく観察の対象となっていたが、そのナルシス種族が最初に現れてから、口紅ぬりぬり・んまんま、パフでぱふぱふという、道具を器用に操るホモサピエンスが現れるのにそれほど時間はかからなかった。
そしてそこの時点で、あらまあエライ時代になったもんだ・・とオジサン的に嘆いたりして、しかしこころのうちはヤヤ楽しかったあの頃は、今思えば懐かしい良き時代であったのである。
このあいだ決定的なものを見てしまったのである。
ぷーっという警告音とドアの閉まるのとほぼ一緒にその女性は私の乗っている電車にぎりぎりで滑り込んできた。
いかにも起きてそのまま出てきちゃいました、という化粧っ気のない顔でしばらく息をついていたが、おもむろに手鏡を出すとファンデーションをぺたぺたと塗り立て始めた。
ここまでは最近よく見る午前8時の風景であるが、そこからその女性は本格的に顔を作り始める。
カーラーというのか、睫毛を上に向ける柑子のような器具で、間抜けに口を半開きにしつつミシミシとやった後、マスカラをグリングリンと塗りだし、さらになんとブラシと頭髪スプレーで頭をセットし、仕上げに香水、首もと腕もとシュシュッというのをしてようやくそのせわしない動きを止めたのである。
うむむ・・これは私の乗ってる電車の種類と時間帯と治安が良くないのかな・・日頃の行ないが良くなかったのかな・・となかば自虐的に考えていたら、ほかにも類似の目撃例が報告されていて、どうも局地的かつ特殊な事例ではないようなのである。
ブラシで髪とくか?
隣で強烈な匂いのするミスト散布されてみなされ。
ケープだかモッズだかビダルだかそんなスプレー散布されてみなされ。
この行動主体が怪しい目つきのハゲツル頭だったら車内は大パニックよ。
ホント最初見たとき私は目を疑ったね。
それまでもお化粧粉ぱふぱふで周囲の人間の黒メのズボンや鞄がコナコナしてしまうという被害届けはあったけれど、それらを凌駕するおぞましさとご迷惑に満ちている。
むかしドラクエにスモークとか、ミストとかというもくもくモンスターが出てきて、これが何をするでもなく霧を発生させて、しかもその霧は効果が薄く、いったい何の意味があるのかな・・と思いつつやっつけていたけれど、こんなところで意趣がえしされるとは思わなかった。
 *編集長註…ガストの意か
どう気をつけてやったって、電車の席上ですぜ、隣の人間にその臭気を含んだ霧や風圧が襲い来るようになっている。
いったいこれはどのような心の動きで説明され、どのような言い訳と自己説明責任がなされてその良心の呵責が起こらないようにできているのか、まったく、まったくもって理解できないのである。
しかもこれがアホアホ女子高生や、いけいけホステスではなくて、はたから見ると一般的なOL20歳・独身のような女性が平然とことを行なっているのである。

えーとこれを見て私が感じたのは、こうやって世の中の価値基準が変わっていって、そしていつも私は取り残されて周りから奇異の目で見られ途方に暮れるのではないか、ということである。
たとえば、「茶髪」が日本人の中で当然のようになって、私から見ると、ワオキツネザルやブチハイエナ、皮膚病の犬や関口宏に似ていて、実際冷静に眺めると、冗談や茶番にしか見えないのだけれど、逆に時代が進むに連れて、真っ黒い頭の私がいつのまにやら小数民族になっていて、おやまあという目で見られていたりする。
あるいは、携帯電話で何やら怪しげな押しつけ無責任ネットワークを作ってるなあと思っていたら、その輪に入ってもいない私があらまあという目で見られていたりする。
もともと世の中の一般的価値観や大勢的思想に擦り寄る意思を持たないから、あまり気にしないのだけれど、そういう世の中、世代の文化、価値観の変化についていけてないなあ・・という自覚が深まる今日このごろ、これらの理解不能の化学薬品テロなんてのを見ると、おかしいのは自分のほうで、世の人々はもう「電車っつうのはそういう場所で当然なんですよ・・あれれあの女の人は電車に乗ってじっとしてるなんてちょっと変ですよ、なにか悩みでもあるんですかい・・」という風な常識が構築されているのではないかしら・・と不安になってくる。
女性専用車両というものがいつのまにかできていたように、化粧室車両というのがしらんうちにできていたという可能性もなきにしもあらずなのである。
そのうち朝の挨拶が香水スプレーの掛け合いになって、おはよう「ぷしゅっ」最近どう?「ぷしゅーっ」というようなバトルロワイヤルな朝の風景になってしまったりする可能性も否定できないのである。

それはともかく、そのブラッシングスプレーのメイクアップな女性は、想像するより美形であって、しばらく眺めていたけれど、今考えるとあそこまでの公開の化粧ということは、あちらさんもそれなりの気慨と意図を持ってその場に挑んでいるという可能性もある。
例えば何かしらの客観的助言や、第三者審査を求めていたのではなかったか。
確かにあの時、まったくたまらんなぁ・・と思いつつも、彼女がピンク系のアイシャドウを塗り始めたのを見て、あっ、あっ、それはブルー系のほうが良いのにな・・なんて比較的冷静に批評する下地はあったような気がする。
そういう意味では電車の中という私にとっての観察のアトリエは彼女らにとっての「被」観察の場となって、二学期デビュー、公園デビューに続く電車デビューというものが電車内オジサンの内心的アイドルの形成に寄与、ここから何者かが未来に向かって大きくはばたいていくのかも知れないなと思った次第である。





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