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第45回
和様礼賛 2004.4.21
信じてるのは胸のドキドキ
胸のドキドキだけ
〜ザ・ハイロウズ〜
人間にとって何を拠所に立つか、ということは本人が気づいている以上に深刻かつ重要な一大イベントである。
「拠所に」なんていうと何か一大決心をして人生をある機軸を元に進んでいく、というような大げさな雰囲気があるけれど、そんな大したもののことではなくて簡単にいうと価値判断基準のことである。
ある事物事象を見聞き経験したときに沸き起こる自分の感情の由来のようなもの、なにがどうして悔しいのか、そんなことになんで興味が湧くのかというような、つまりNHKのおーいはに丸!や徹子の部屋!や何でかフラメンコ!のようなものといったらいいのだろうか(よくはない)。
例えば人によって笑うところって違うことがあるでしょう。
映画なんか見てても隣の人間とまったく違うところで笑っちゃうし、特にアメリカ人のババアが下品にぶちゃぶちゃ笑ってるところなんて一切笑えたためしがない。
誰彼を怒る場面なんつーのもばつが悪いくらいヒトと異なるところがある。
いじられキャラなんてのはその最たるもので、実際客観的に見てそのキャラ以外の人がやられたら怒っちゃうようなことを当の本人は本当にうれしがってすすんでその対象となっている。
例えばうっかり八兵衛が黄門一味に毎日されてることをその師・弥七がそのままされるなんてことは、恐ろしくてまったく想像できない。
ちなみにかげろうお銀が風呂に入ったらそこは笑うところであるが、ある種の老人どもには生唾もののお色気羨望シーンであることはよく知られている。
あるいは何か買い物してお釣りを多く貰っちゃった場合なんかに、罪悪感に苛まれる人と、執着至極とてそのカネで呑みにくりだしちゃう人というのがいて、その違いというのはその人の拠るところがまったく異なっているところから発生する相違点である。
ちなみにわたしは9年前、*来軒で1000円出して9000円お釣りをもらったのと、5年前、神戸・三宮のある露天でダウンジャケットを買ってなぜか5000円もらったことが、青空のような佳き日の思い出としてココロのウロコに残っている。
そういう何か起こったときにその人間が感情を形成するにあたって根拠とする、あるいは材料とする信条一般、価値基準が「拠所」というものである。
これは人種や住んでいる国によってあらかたの傾向が定まってくるが、それだけではおさえきれない義理人情の世界があってなかなかに奥深いものがある。
たとえばキリスト教的イスラーム的唯一神世界の人にとって、その後ろにひかえおる神の存在と目(視線)というものは、何をするときも絶えず意識する、ある意味第二の自分のような客観的絶対性を常時はらませた感情を発露する。
ややもするとその決定の主体さえも自分のものでない場合と可能性があるのである。
時にそれは大いなる無責任、判断放棄となって怒濤のように他人格を排撃するのであるが、いっとき判断を間違ってもその間違いを仕方がないこととして自分を赦し、悔浚できる=やり直しできるというところが生きていく上で便利といえば便利な考え方である。
一方でそれとはまったく異なる判断基準、日本人のような、自分とその他社会という相対関係の中で全てを把握判断していく人種は、逆に判断を下したが最後、その判断は神のものではなく、まして他人のものでもなく、自分と同化して血と肉になってしまうから、それを改めるということはありえず、自らの非を認めるということはその人格の死へと直結してしまう。
反証的であるが相対価値というのは独立的であり、絶対価値というのは多分に従属的意義を含んでいるのである。
相対的ということは、その相対するものと切り放した厳然たる自分というものが一切の孤独の中で進む道を決めていくから、神や他の絶対的後ろ楯のないその独立した判断は非常に厳しいものなのである。
だから日本人は曖昧だ、とか、イエス・ノーをはっきりしない、誤ったことをすぐ隠す、といわれるが、それはそれでしかたのないことなのである。
日本人がその特徴的相対基準のまま欧米的スピード明確判断していたら、ハラキリ、ニンジャによって人口はすぐに半分以下になってしまうのである。
最近流行りの「サムライ」つうのも簡単に言えばそういう相対判断の遵守=誇りのことである。
そういえば最近韓国で汚職で自殺する経営幹部つうのがあいついだけれど、朝鮮人もそういう相対的基準でものごとを考えているのであるなと意外に思った。
世界は広いけど何か悪いことやって、すいませんと自殺してしまうのは日本人と韓国人くらいではないか。
そういう意味では共同戦線をはって相対価値基準拡大運動を仲良くやっていかねばならぬ国どうしなのであって、互いにネガティブキャンペーンで中傷誹謗しあっている場合ではないのである。
まあそれはともかくですな、何が言いたいかというと、このワタクシめの拠所っていったいなんじゃろ?というところである。
つい最近、何がどうということもなく「バイオリズム」が悪いな・・という日が幾日か続き、つまりもっと主観的にいうと、何を理由とすることもなく「虫の居所」が悪いということがあった。
これははらたいらもビックリの男の更年期とか、春の皐月の五月病とか、そういう類型的なものではなくて、一種の感情的酩酊感というのか、天と地の区別が曖昧になって重力が一つ方向に働かない状態と考えてもらえばかなり近い。
例えば二次元の座標軸というものを考えたとき、それを思考内構築した時点で上下左右が決定されてある一種の感覚把握のための漫然たるベクトルというものが構成される。
つまり、その座標軸の交点=0地点というものはその時点で0以外の何者かに変質してしまっている。
0から出発すると考えた時点でそれは純粋な0であることをやめているのである。
もちろんそれはそれ自体を0の概念と呼んでいるのだからいいのだけれど、その0を0たらしめない重力のような自然な方向感覚がなくなったとき、それでは果たしてそこに絶対の0という地点がわらわらと明確になってくるかというと、そうではなくて逆に軸と軸の交わりは消え、そこには漠とした暗闇がざらっと広がっているということになりはしないか。
ある意味そこのところ私はまいってしまうのだな。
そして日本人である私にとって、当然、神の後ろ楯というものがないから、無闇やたらに飛び交っては近所のガキの懐に飛び込んでしまうコウモリの様に、冷静なるパニックパンツとなって私はあたふたとするのである。
歴史上こういうことが何回か我が身におとづれているので、今ではまあ落ち着いて対処できるけれど、その昔、若い頃には回りを巻き込んでの大変地獄であったのである。
こういう時にしてはいけないことに、酒を飲むことというのがある。
普段は快活に呑んではヨソ様の性質を陰湿に槍玉に挙げて舌なめずりなんかしてまったく健全なんだけど、こういうときって飲めば飲むほどそのウスバカゲロウの幼虫のおうちのごとくずるずると深みにはまっていく感情のへ先は、累乗的に暗くて狭い最終局面へとネコまっしぐらというふうにできている。
泣き上戸の人っているけど、あの自己否定他己礼賛のもっと激しいやつだな。
そういう日の次の朝というのは、生きている自分になんだかほっとして、次の瞬間ふと足下をみると断崖絶壁によって立っている自分に気づくような、のぞき込めばそこはまさに無に近い質量をたたえた暗黒の闇が広がる、むおぉっというつまさき立ち感覚である。
起きるとそこは見たこともないコンビニの店先だったり、手の指の爪がすべて剥がされていたり、あるいは血塗れのシーツにくるまって寝ていたり、そしてそのような物理的な恐怖状況よりなにより、身の毛もよだつ精神切迫性というのは、突然タランチュラに飛びかかられてぐしゃっめりめりっとねじ切られたキリギリスの首筋のような、悲鳴を上げたくなるような恐ろしさに満ちている。
しかし、である。私にとって拠所というのは逆説的にもこの追いつめられた崖の絶壁なのである。
絶対0から逃れえるのはこの崖の壁ぎわでしかありえない。
そのエッジを感じて必死につかまってこそのわが生活感なのである。
それは死と隣り合わせといっても劇画チックにすぎない感覚である。
そして普段もその絶壁と奈落の縁の狭間をふらふらと歩いているのだが、ある時期ふと下を見てしまうのだよな。
するともう視床下部のほうが座標軸の修正をやろう!やろう!とまるで学級委員長のようにはりきってしまうから、心のコアな部分はそれと反比例して急降下していってしまうのである。
そこから立ち直るのが大変なんだけど、実際、その絶壁というのは人を寄せつけない急峻なものながら、しかし確固としてそこにあるのである。
それがあるからこそ崖っぷちを歩かなければならないのであるが、しかしその駆け上がれもよじのぼれもしない壁は揺るぎない頼もしさでそこにあるのである。
花の子ルンルンや青い鳥を持ち出すまでもなく、拠るところというのは果たしてそういうものなのである。
で、それって具体的には何なのよ?といらいらした人はお生憎様、このままドロロン閻魔くんなのである。
とにかく唯一神教徒たちの拠って立つところよりはましなものであるのは間違いないのであるよ。
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