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第44回
シンドローム 2004.4.3
ビッグバンに始まる
ミトコンドリアンの増殖が
際限なく意識を宇宙の濁流に巻き込み
不可逆にして永遠の阿弥陀くじを辿り始める
そしてまた物質の最小単位は更新されて
うちなる高速増殖はビビッドに乗積しながら
くりかえしくりかえし爆発する
このあいだ新聞を読んでいたら、社会面のスミっこに、読み飛ばしてしまいそうな小さな記事でおもしろいのがあった。
内容をかいつまんでいうと、神戸市では「読む」「書く」などの特定の分野に関して著しく能力の低い病気「LD=学習障害」をもつ児童に対して、心理学者のカウンセリングなどを通じて援助していきます云々・・と書かれていて、そこで私はしばらく意味の取り方=文面の多様性の追求のため、じーっとその記事を読み返していたけれど、何度読んでも脳からアウトプットされてくる答えは一つで、つまりそれってただの「頭のよくない子」のことではないのか・・?
読み書きソロバンというその人間個体の処理能力がそのままストレートに結果の出る脳内素行について、障害や病気による遅滞や延滞が生じていて、その可視的なる原因=障害を取り除いたら、すべては解決して、そこには生まれ変わった、読んだり書いたりの得意な一般人がジョワっと一つたたずんでいる、という幻想は私には理解できない。
それはつきつめていくと、例えばJリーグやセントラル・リーグに夢を求め、夢破れた人間一般多数、あるいは、バスケットボールやボウリングが不得意な人間というのは、その当該運動能力障害という一種の病気であるということになる。
得手不得手が「障害」の一言で片づけられてしまうわけである。
それはそれで、まあ、確かにある意味幸せな考え方ではある。
そのような考え方でいく限りその人間に挫折というものが起きる可能性は限りなくゼロに近い。
この記事を読みかえると、あまりお勉強の得意でない一部の人間に「心理学者」によるフランクリーな補習(=カウンセリング)を行なって、形式的に落ちこぼれをなくそうということではないのか。
つまり、「学習障害」という病気は、外聞を気にするような人間に都合のいい婉曲なアホ宣言であって、本当はただのアホなんだけれども、学習障害という病気によって本来の優れた英知が阻害されている、というとんでもない言い訳と責任転嫁が世を挙げてまかり通っている図に他ならないのである。
この例に習って世の中を見渡すと、「嗜好障害」や「顔面障害」といった第一級の障害者が私の身の回りにもたくさんいることになる。
この顔面障害がなければもっとイケてる顔だったのに・・という使用法が、根元的問題処理の正しい概念図なのである。
「うちの子にかぎって」という大衆芸能がここまで来たのか・・と思うとなんだか人間の業というもののどうしようもなさにうつむき加減のため息が出てくるのではあるが、この記事に出てくる心理学者って本当にこの症例について、不合理な「障害」が生じていると思ってこのような分野を研究し、あまつさえ役人に「こんなんしたらアホの子も賢くなりますよぉ・・」という吹き込みをしているのであろうか。
なんやかんやいってその心理学者の正体を突き詰めていくと、実は速読法や、能開センターのようなノウ天気な全人類全能説の業者に行き着くのが関の山ではないかと思うのであるのよね。
似たようなのに、残忍な低年齢犯罪者の特徴として一昔流行ったのに「多動性障害」というのがあったと思う。
漢字で書くと大層だけど、早い話、じっとしてられない、いつでもソワソワキョロキョロのガサガサ手悪サーのことなのである。
代表的人物としては諸星あたるなどが挙げられる。
「多動」なんて言うとそっち方面の人は息を荒くしてもうじっとしてらんない!となってしまうからあながち障害という文字に違和感はないけれど、子供なんて多かれ少なかれみんな多動性障害である。
自分の幼い頃を振り返ってみても、授業なんか10分と聞いていたタメシはないし、隣の子としゃべったり消しゴムで遊んだり机に穴を空けたりは誰でもしていて、飯塚寿美子先生は怒って職員室に帰ってしまいましたなんてことはそれこそしょっちゅうあった。
逆に落ち着き払って微動だにせず朝礼を聴いている小学生なんていたら、その子のほうがよほどイカレタ「寡動性障害」なんぞという深刻な病気の様な気がする。
落ち着きの無いことこそが子供の本分なのである。
この多動性障害にはオマケが着いていて、逆にこの障害があると、芸術、その他特殊技能関係に非凡な才能を発揮するなどとまことしやかにささやかれていて、ピカソがそうだったとか、信長もそうだったとか言われているけれど、冷静に見て、やはりこの多動性というのはただの落ち着きの無さであって、ほかの才能や能力にはほぼ影響ないのではないか・・と個人的には思われるのである。
小学生の時、それこそ日本で五本の指に入るほど落ちつきのなかった田中順君がその後すばらしい芸術家や学者大臣になったという話を、残念ながらいまだ聞かないのである。
このような「障害」や「症候群」といわれるものを当事者の目を離れて冷静に見てみると、何かしらの人間の特徴を負のイメージでとらえ直して、その当然なる多様性を逐一分類研究しもって、万が一相異なる二検体に類似性や相関性を見いだすやそれを「障害」と断定する、という医療関係者の成果主義的意図がありありと浮かび上がってくる。
医療の進歩というものは大なり小なりこういうことであって、それは病気を「発見」する過程と言っても過言ではあるまい。
それまで自然死、老衰と見られた範疇の症状が、特別な病気として「発見」され、治療法が編み出され、さらに次の自然死のゴミ箱をあさっていくのが医療の本質にほかならない。
そういう意味で言うと、そのうち排便や快楽もなんらかの「障害」とされて自分の自由意志で行なえなくなってくるようなこともありうる。
極めれば人間は「老化」さえも病気として発見して治療してしまう時代が来るような気がするのである。
つまりさう考えるならば、いまこの瞬間も老化ウィルスによって我が体はむしばまれつつあるわけである。
またある研究によると、チンパンジーにある遺伝子で人間にない遺伝子はいくつかあるが、人間にある遺伝子でチンパンジーにない遺伝子はいまのところ無いそうである。
ややこしいけど簡単にいうとチンパンジーより遺伝子因子が少ないのである人間は。
つまり人類というのは類人猿の共通の祖先から遺伝子を受け継ぎそこねた、あるいは突然変異で無くしてしまった欠陥的存在である可能性が高いということである。
進化というものをどう考えるかという問題ではあるが、実際、人間というのは遺伝子の質量が新たに増えてできあがった生物ではないわけで、かけ算というよりは割り算、足し算というよりは引き算から生まれた、やや後ろ向きな生物なのである。
たしかに鼻の利きの悪さや運動能力の低さなんかを考えると、この自然界の中での劣等生物と言われても反論できないところがある。
突き詰めていくと人間という生物形態そのものが病気ということであって、つまり簡単に言うと、チンパンジーやら類人猿の重度の遺伝的障害者が人間ということになる。
進化の最終形態、最高種族のように思い思われている、全ての生物の霊長たる人類も、ある系統樹の退化の成れの果てであると考えると、やはり大したことないんである。
そしてさういう意味ではわれわれが全ての病気を治そうと、必死になって遺伝子治療を施していくと、猿ならまだしも、最終的には人間=小さな原核生物になって、国立大医学部病院の401号試験管の中でぴくぴくうごめいているという可能性もなきにしもあらずなのである。
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