海洋空間壊死家族2



第43回

鳥瞰   2004.3.27



顳に指をさしこんで
眼球をでろりとさかしまに動かせば
やがて眼下にかすむ森の街が見えて
急降下する陶酔と絶頂のふぶるえは
肛門の抜き出でるはじらいに噎ぶ



この間、劇団四季の「アイーダ」のプレビューを観る機会があって、京橋(大阪)のMBSホールに行ってきた。
劇団四季といえば、キャッツやライオンキングなんかで有名な、巡業で採算の取れる日本唯一のミュージカル劇団であり、アイーダといえば古代ヌビアとエジプトを舞台とした、これまたオペラやらブロードウェイやらで有名な愛と勇気の物語な訳である(ヒドイ説明口調だな)。
それが今度あらたに関西で封ぎられるということになって、その招待を受けたVIPの一人(の代理人)としておこがましくも正装してお邪魔してきたのである。
私はここでも何度か公言しているように演劇関係というのはほぼ目の敵に思っているのであるが、こういう機会があれば、何しろ根が貧乏人だからイナカ根性丸出しにはあはあと息も荒く手を揉みしだきながら参上してしまう卑しくもくだらない人間なわけで、実際今回も会場一番乗りで喜び勇んで行ってきてしまった。
しかし、というか、やっぱり、というか、見に行く表向きは卑俗かつ下手であってもその内面からの心根はすべてを見下してケッという態度であるから、今回もまた様々な誹謗中傷ばかりを印象に残して帰ってきたのであるが、極端なハナシ、劇が始まる前にバーでエジプトビールというのを飲んだのだけれど、そのエキゾチックなビールの味と、協賛のオマケでついてきたグリコプリッツが私のその日のベストマッチであったのである。

ほんで、演劇と現代美術と映画に疎い非芸術的現代人としては、その劇団四季やその内容についてあれこれ言うつもりは毛頭ないけれど、実際問題として、当日目の当たりにしたミュージカルという分野に関して、特に日本語でのミュージカルという演芸に関しては、はっきり言って、心情的にあまりぴたっとくる感覚がなかった、もっとはっきりいうと、その完成度はともかく、どっと笑い、という感じに着崩れしたおもろくさい空間であったというのが正直な感想である。
食べ物にたとえるなら、あんこスパゲティー、職業にたとえるなら宇宙刑事ギャバンという感じ。
何しろすべて日本語だからね。
「このあふれる思いは何なんだぁー」ということをメロディー付きで純粋な日本語で歌われても、一歩引いたこちらの立場から観ると、ニューミュージック風の演歌や、宇宙戦艦ヤマトの様な雰囲気が濃厚で、笑ってしまって真剣に観てられないのであるよ。
だいたい、広告のキャッチコピーが「すべては愛だ」だから、すべてがこの調子なのである。

もともと日本における「ミュージカル」という演芸分野に関しても一般的な見方は辛辣かつ冷めたものである場合が多い。
イカ天と曙でならした相原勇や、短足とワイルドキャッツでならした本田美奈子などを筆頭に、アイドルの花道を転落して、あるいは登る以前にその輝きを失わせていったイメージの二流三流のアイドルのハキダメ=ミュージカルという先入観がこちら一般市民にある。
実際、そのミュージカル人材を詳細に見ていくと、歌と俳優ではやっていけないような無能かつ旬落ちした人間が、ライブのお遊戯会で物怖じの無さを才能と勘違いして嬉々としてやっているという感じが濃厚である。
「最近はミュージカルにチカラ入れてるから、メディアへの露出が少ないのよ・・」というような本末転倒の、原因と結果を履き違えたような言い訳をその大多数の元アイドル風人物群に感じるのは私だけなのであろうか。
もともとのミュージカル文化側としても、その半ば興行至上的な、ちょっとした話題性を得んがために偶像にすりよって媚を売って換骨奪胎された雰囲気がにじみ出ていて、支払った犠牲は非常に高いと言わざるをえない。
菊池桃子が一時期「ラムー」というバンドを結成してロックをやろうとしていた、そして音楽性の違いによって解散したというのは有名な話であるが、その成功と失敗の別れた枝葉がミュージカルとロックではないだろうかという気もする。
まかり間違えばロックという音楽もミュージカルのような、世界基準とかけ離れた純日本風のどさ回り局所流行に堕する危険性もあったわけである(堕しているという指摘もあるけど)。

それはともかく、劇団四季はそういうふしだらな雰囲気もなく、ストイックにミュージカルを追求している真摯な姿勢があって、言うほどイヤな気分はなかった。
んで、その実際に見たアイーダだけれど、分からないなりにちょっとフォローしておくと、2〜3時間の公演は、観ていておもしろかったし、出てきた俳優陣も才能を感じさせるといえば感じさせるような、素人仕事でない雰囲気を漂わせてはいた。
緊張感をそぐ元アイドル風もいなかった。
随所に入るショーはにぎやかで迫力がある。
特に王妃アムネリスの心の揺れ動きなんかは観ていて感動的ではあった。
しかしイカンセン、ミュージカル特有の挿入歌が始まると、そこからは松平健や五木ひろしもびっくりの、マカロニウェスタンな、俺は田舎のプレスリー的な演劇歌謡ショーの節回しになってしまうから、盛り上がるところでマッタク違う意味で盛り上がってしまう。
主役の男は間違いなくコブシをまわしていた!と演歌研究家の私は認定するのである。
つまり、ミュージカルと言うよりはまさに浪曲、歌謡ショー、もっと言えば紅白歌合戦ともいえるような日本熟年風年忘れエンターテインメントなのである。
それが国定忠治別れの一本杉とか、石松熱田神宮見越しの松、なんてテーマだったらしっくりくるんだろうけど、なんといっても、お題は古代セムハム語族の愛と政略の一本勝負なのである。
これはたとえていうなら和風化に失敗した西洋料理もしくは西洋化に失敗した和風料理、例えばフォアグラのぬたあえや、ポルチーニの味噌汁というような戸惑いがある。
それを掛け値なしの、真剣味そのままに演じているわけだから、こちらとしては恐縮するよりほかないのである。

幕の合間にキョロキョロとそのホールを見渡してみたけれど、プレビューという割には、やはり関西ということで大した人物は来ていないようであった。
遥洋子が私の靴を蹴っ飛ばしていったのや、MBSホールだけあって、そのアナウンサー関係がうろちょろしているくらいで、期待したような人物はおらずがっかりだったのだけれど、ま、それよりなにより、この観劇を通して一番いらいらしたのはまさに私のまん前に座った人間の頭である。
それだけで二度とMBSホール行くもんかと思ったね。
その人物はイデオンの主人公のようにとてつもなくどでかいアフロヘッドをしており、遠くから見るとそれは劇場におかれた大きな一本のジョイスティックのようなのであった。
後ろに座ってみるとホントそれは笑ってしまうしかない、屏風かうだつか灌木かというくらいの遮光遮視線物体なのである。
当然のごとく、その氏の動向によって私の上半身は前後左右50度くらいの傾角をもって可変式垂直離陸翼の如く頻繁かつ大胆な肉体的転向を強いられていたのであった。
観劇のためのポジショニングにわが集中力の6割方はとられていたような気がする。
そんな悪条件下のもとで面白がれというほうが無理である。
だいたい映画や劇を見に行って何が一番腹立つかというと、8割方は周りの人間のマナーや身体的特徴である。
ずっと横でポップコーン食べてる奴とか、両脇の手摺いっぱいに肘をつく奴とか、脚組んでヒトの脚の上に足を乗っける奴とか、途中で携帯のやりとりかなんかで出入りを頻繁にする奴とか、肥大カニ大将や、世紀末腐敗ジャコウ猫などなど(書いてみるとホントひどいな)・・そういうところを改善しないと、一般人というのは特殊嗜好空間には入っていかない、つまりミュージカルを筆頭にした亜流劇場演劇はいつになっても蔑まれるハキダメ的マイナー文化にとどまるような気がする。
とくに観劇席、地場傾斜角10度以下の公の劇場にアフロは絶対禁止なのである。





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