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第41回
山彦 2004.3.6
遠き空より時雨れたる
つめたき雫は飛ぶ蛾をたたき
滲みわたる谷底の渓のひたたれは
林のねむりぞ凍てしばせ
静かなる白きけぶりを走らす
さてここで質問です。
あなたはある夕暮れ時に小さな橋を渡っています。
ふと思うことがあって立ち止まり、欄干に近寄って川を眺めます。
さああなたは川が流れてくるほうを見ていますか?
それとも川が流れていくほうを見ていますか?
いや、別にそれによってあなたの性格が高飛車で直しようのない癇癪もちであるとか、気が弱くてこれからの社会生活に通用しない人間のクズタイプである、とかなんとかを判断する、あるいは占う、というようなややこしい話ではなくてですな、実はこれによって生まれ育った土地というものがある程度判明するような気がするのである。
流れてくる「来し方」を見ているヒトというのはほぼ間違いなく海の近くで生まれ育った、あるいは海に遊びに行けるような土地に育っている可能性が高い。
逆に流れていく「ゆくへ」を見ているヒトというのは山育ち、という結論がここから導かれるはずなのである。
そしてさらにさらに妄想を激しく昂ぶらせていくとですな、この流れてくるほうを見ているヒト、というのは大学や企業なんかでの理論基礎研究の探究者というものになっていき、逆に流れていく方を見ているヒト、というのはそういう出てきた研究や成果を使って何物かを発展させていく、というようなアソシエイトタイプというものになっていくのではないのか、という推測が働く。
流れてくるその源を凝視し、あるいは想って遡っていくその視線というものは、物事のどん詰まりに存在するであろう真理を突き詰める可能性と才能に満ちていると思うのである。
逆に山国に育った人間にそういう根本思想というのはほぼ存在せず、その源流から流れ出たものをどこに導いていくのか、どこへ発展していくのかを想像して追いかけていくというような、ある意味正反対の才能と興味があるのではないか、とそう思うのである。
そしてこの二つの命題を検証することなく単純に複合化(単純に複合?)すると、海辺生まれの人間に科学者や数学者が多いのではないか、ということが導き出されるはずである。
調べてないからわからんけど、著名な研究者というのは海辺で育っているはずである。
我ながら暴論だな。
しかし第一の命題(山か海か)については、これは私の知り合いのヒトに訊くとまず8割の確率で的中するから、単なる当てずっぽうの半分半分5割という確率ではなくて、ある程度の真理がそこに介在するわけである。
ま、それがわかったことによって何かいいことあるか、というとほぼ「いいことない」ので恐縮なのであるが、実際この研究を研究者タイプのヒトが続けていったら驚くべき人文科学、社会心理学の成果というものが導き出されるのではないか・・と独り恐れ戦いているのである。
そしてこの事実というより仮定から類推すると、ある人間の思考方法というのか、人生の駢儷体のようなものというのは生まれ育った環境に影響され、ことさらに支配されているのではないか。
自分の自律的な選択と統合と高度化によって獲得してきた、と自負しているこの理路整然たる頭脳インフラも、あるいは三つ子の魂そのままになるべくして、というより、「昔からちっとも変わってないなぁオイ」という同窓会のような普遍不変形成された可能性が浮かびあがってくる。
そして翻ってこの一番身近な存在である「私」という個人の生まれ育った環境というものを鑑みたとき、そこには思い出すも忌まわしい戦慄の過去が横たわっているのであった。
私は群馬県という、海のない典型的な山国で生まれ育ったから、実際大きくなるまでうまい魚の刺身を食ったこともなかったし、或るとき、修学旅行で新幹線が熱海にさしかかり、海が見えた時点でクラス全員が立ち上がって「海だ・・!海だ!」とスタンディングオベイションかつウェイブするのを周りの人間がやや恐懼していたのを、恥ずかしくて他人のふりをした卑怯な人間であるのだが、そんな私がその躍動感の少ない片田舎の山中の暮らしでまず覚えている最初というのは地グモの巣捕りである。
覚えている、という単語もクセモノで、あとづけの記憶というものも実際存在して、アルバムの写真を見てその時のことを親に聞いて覚えたような知識を自分の記憶として刷り込んでしまう「覚え」もあるから一概に真実は供出されないのであるけれど、この地グモだけは、我が心の奥底から導き出されてくる真実の一露であって、逆にこれまで誰にも話さずに胸にしまっておいた類いの記憶なのであるから、これは間違いがない。
地グモというのは地方の俗称かも知れないけれど、具体的に言うと、壁や木の根っこなんかに頭陀袋風の巣を張って、中で小動物などの獲物を待ちかまえているという、あの赤頭巾ちゃんに出てくる狼のような蜘蛛のことである。
まあ、その卑怯で怠惰な性格はともかく、生態的には非常におもしろい生物であって、子供心にもその習性と衝動を逆手にとった知恵と反射神経のやりとりというものは、まさに地球に生まれた醍醐味のような丁々発止の好手好石のサバイバルゲームであって、毎日日が暮れるまで一人で這いづりまわって、あるとき村の屋敷や樹木すべてをほじくって土グモがいなくなるという恐ろしい局所的地球環境破壊に手を染めるにいたったこともあった。
ちなみにその捕らえ方の一般的な方法は、まずその地面上にあらわになっているヅダ袋の一部を小さい棒なんかでこちょこちょとやると、クモがおっおっっ・・という感じでその袋の上のほうに上がってくる。
そしてその棒を持つ手の反対の手ではそれよりはるかに微妙な感覚で、しかも周到に同時進行的に袋を地面から引き抜きつつあって、その引き上げた袋にクモがまんまと入っていた場合は、クモのくびれた腰の存在感そのままに、袋がずしりと質量をもって迫ってきて、なんとも幸せな感覚に満たされる、というそういう仕組みになっている。
反対に失敗すると、クモが途中でこちらの意図を明確に読んで、途中で袋をすぱっと切ってしまい、左手には軽くてうつろなクモ袋が一筋・・という世にもあはれな結果が待ちかまえている。
その1か0かの一か八かの感覚というものは、何度やっても飽きることのない、ある意味、人間世界の妙なる真理をあらわしているといっても過言ではないほどの栄枯盛衰なのであった。
そしてそのクモの実体はというと、昔、トイレ脇においてあったようなチリ紙を、クシャクシャに地べたに摩り付けたようなきちゃない袋から出てくるわりには、ワインレッドにぬら光るその滑らかな牙とベルベットに覆われたような艶消しの控え目の小豆色の腹部など、オトコ心をくすぐる姿態と容貌をしておってなんとも言われぬエクスタシーがあったのである。
能や歌舞伎にも題材があるが、土蜘蛛という古代日本における先住民の山の民がいて、それはたいがい都市、あるいは海の民から殱滅される運命を背負っているのであるけれど、そんな山間の運命を私が小さい頃、遊びをとおしてなぞっていたというのも滅びの美学として興味深い。
この地グモ掘りは、私の出現するところでは、アリジゴク捕りとともに必ず行なわれており、牛頭大王の通ったところは地グモがいないと言われるほどであったのであるが、当然それは保育園の敷地でも行なわれていて、その主たる戦場は敷地の裏街道とも言える暗くて人通りの少ない、建物の西側であったのだが、そこに一つの象があった、というのが、何の意味もなく我が心に深い印象を残している。
象があった、というのはそのまま、本当に象の像があったのだ。
それは幼児にとっては巨大で、ある意味本物の象に近い迫力で存在したのだが、その象を登り切る、ということがその保育園内での成人の儀式のようになっていて、登ったものはある意味人民に君臨する王族のような地位と名誉を得られたため、裏組織の主催する登りの儀式は相当に面白みと旨味のある闇ビジネスだったわけである。
そしてそのうちその像に登る儀式は当然のように先生方の知るところとなって、全面的に禁止されるのであるが、それでもさりとて登るゲリラ組織というものがあって、それが他ならぬY沢K一率いるスミレンジャー(すみれ保育園だったからね)であったのである。
そのうち本格的な先生の取締とガサ入れが始まって一人また一人と補縛されてしまったのであるが、その中で最後まで抵抗をし、というよりは要領よく登り続けていたのが私であった、というのはちょっとうろ覚えだけれど事実である。
誰もいなくなった園庭の片隅で、見つからないように象の頭に乗って見上げた空のなんと青かったことか。
そしてもう一つ覚えているのが、お弁当を食べた後、歯を磨く時間に、庭と建物の境目のあがりかまちみたいなところで、砂地に「仮面ライダー」と書いて好きな女の子に見せていたこと。
なんだか誇らしくて、それを境に私は本を読むような知識偏重、智恵見せびらかし人生へと大きく舵をきっていったという気がする。
これらがアルバムや親の語りなどによらない純粋な記憶のはじめて物語による我が成育環境である。
地グモ捕り物、象登り、仮面ライダー。
そこから導き出されるのは、ややしつこい性格と、小心タイプの反骨心と、いかんともしがたい虚栄心という、この自身の三大要素はやはり小さきときからその萌芽の芽生えを見せて大きく育ち始めていた、ということである。
このあいだ久しぶりに、当時通った保育園を訪ねると、象は跡形もなく撤去されていて、保育園自体もどこか違う土地へと移ってしまっていた。
近所のこどもがぴうぴう駆けずり回っていたけれど、その建物は地域の公民館になってしまっていて、雰囲気からして既にパステルカラーイメージの子供の建物ではなくなっていた。
しかしその敷地のあちらこちらにホリゴメ君やハットリ君ら幼なじみの思い出の端々があって、それを見つけて私はなんとはなしにうれしかったのである。
巨象朽ちて消えぬれば
雪柳地に咲き散らしたり
往時の二十八星点燈も
腹見せて固く空かかめ
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