海洋空間壊死家族2



第4回

堕天使   2003.3.31



さあ
もはやあなたを縛るものは何もない
その黒き翼であめを翔け
あなたの愛するこどもたちを
歓楽のサバトへと導きたまえ


             竹村朋也



飛行機に初めて乗ったときのことを君は覚えているか。
まるで時空要塞マクロスの映画のサブタイトルのようであるが、というのもよく分からない例えではあるが、このあいだ私、初めて飛行機に乗りました(この辺りは80年代アイドルっぽいか)。
今まであへて飛行機には乗らず、30年間も無理をして陸路、あるいは海路の移動を心がけていたイラク軍のような私が、どーしてかくも簡単に飛行機に乗ってしまったか、というと、これまた情けない話、会社の出張という、くだらなくも拒否しがたいサラリーマンの悲哀あふれる情話的な理由からなのであった。
こうしてなしくずしに、ヒトは大人になっていってしまうのである。
だが、しかし、乗ってみたら、まさに目からウロコ、南北朝の昔から先祖代々食べられなかったキュウリを、しきたりを破って食べ出してしまった虎一ジイちゃんもびっくりの、便利痛快の乗物だあというのが私の初体験の感想なのである。
ほんで、この感動と興奮を、すでに飛行機生活にも慣れきって、青春時代も記憶の彼方に過ぎ去り、感情の昂ぶりなど感じられぬ、現代病理学的中高年症の若い方々にあへて送り届けたい、そう思ったのであるよ。

というか、皆さんどうですか?あの飛行機というものを信じているんですか?と私は訊きたい。
まず常識的に考えて、あんな大きくて重いものは空を飛ばないしどこも飛ばない。
UFOも飛ばない。
これはとてもミスユニバースな考えである。
しかし思うに、乗客皆が「飛ぶんだ」と思っているがゆえに、あの6tを超す鋼鉄の巨体は惜しげもなく大空へ飛び立ってしまうのである。
もしも乗客のうち80%以上が「これはちょっとしんどいんちゃいまっか」と思った瞬間、飛行機は本来の重力のベクトルを取り戻し、地球に叩き付けられるように設計されているのである。
18世紀の航空力学者ロイドの法則の代表的な公式を簡潔にまとめたのが下の式である。
y=log x(2πt−0.8m)
tが総乗客数、xは飛行可能判断指数である。
この式からも見て取れるように、我々乗客というものはとんでもなく危うい橋を、というより、知らぬをいいことに、こんなにもカ細いロープの上を目隠しして綱渡りさせられていたわけである。

まあ、以上が、今まで人生開闢以来の、私の飛行機に対する基本的心理設計の概略であったのである。
しかし、単刀直入に言おう。
飛行機は飛ぶのである。
飛行機は男のロマンである。
この論理的内ゲバ急旋回の展開は以前どこかで感じたことがあると思ったのだが、あの、今思い出したが、これはトイレのウォシュレットを使ったときの感激に近いものがあるといえるのではないか。
てめえなんぞにケツを洗ってもろてたまるかよという、カクマル全面対決姿勢だった白ヘルの私が、ある朝、犬のような素直さで許し合えたウォシュレットとの邂逅の日々を私は今、飛行機との和解という劇的瞬間に再び感じあえたのである。
というのは言い過ぎであろうか。
それほどの思考思想、趣味嗜好の転換を、飛行機は私に惹き起こしたのである。

さて身構えながら飛行機に乗り組んだ時の話、簡単にいうと各論である。
なんだか南北が分からなくなるほどに滑走路をくるくると迷い回ったのち、まっすぐにグンと加速しだした様は、湖上の水鳥か、上海の怪鳥ペリカンかと見まごうほどの雄大さとかわいらしさを備えていた。
羽根を真横に大きく広げ、はばたくというよりは、走って走って、ニルス、カモーンニルス、カミナップ、シュワァアァ−というあの感覚、プレーンクラフトが浮き上がったような感覚、あるいはタントラ修業中に身体が宙に浮いてくるようなニルヴァナ感覚、わかっていただけると思うのだが。
そして体感的には新幹線ほどの速さで、えっもういいの?もう飛んじゃうの?あっ、あっという意外の速さでフワッと中空に浮かび上がってしまう。
このあたりやはり「気」で飛んでいるのか。
しかし、あの主翼はよくないな。
ちょうど主翼の付け根あたりの座席から外を眺めていたのだが、ちょっと心臓に良くない感じの動きをそいつはしていた。
まあ、車のブレーキと同じく、アソビの無いのも設計上よくないのだろうけど、無規則にバタバタッ、バタッと微動する様は、うちの田舎のブタ小屋タール塗りトタン屋根のように不安定で、ちょっと気を抜くと、バーンと飛んでいってしまいそうで気が気ではなかった。
プラモデルでいうと、取り付ける部品を間違っちゃったかなという感じ。
ボヤッキー的にいうと、おやまあ、ドロンジョ様、こーんなところにボルトが一本余っちゃってまぁすよぉ゙ー、という感じか。

話は変わるけど、以前、船で中国は上海に行ったとき、1泊2日の船の旅であったのだが、そこには、2日かけて1時間前の世界へ行くというような、感覚的かつ物理的違和感というものがあった。
日本の朝8時が上海の朝7時だとすると、そこに2日かけてたどり着いた私はいったい満何歳と何時間の人間なのだろうか。
例えば、私が生まれて48時間後には分裂を終えて死滅するバクテリアだとするなら、日本を発ってからいつまでシャーレの中でうごめいていることができるのだろうか。
上海の明星の起き抜けのブドウ糖を私は味わえるのか。
実際、甲板から、ボウバクと過ぎていく海原を眺めていると、地球の恣意的な動きが、私のプレジデントな時間を微妙にずらしていく感覚というものが感じられた。
分かりやすくいうなら、自転ホルモン逆噴射若返り感覚である。
宇宙刑事ギャバンで、悪の宇宙組織マクーがマクー空間を造り出すため地球の自転を急反転させると、途端に海の波が逆しまにざばぁーんと戻っていく、そして怪人は通常の3倍の能力を発揮することができる、あの感覚である。くわぁー(マクー空間に引き摺り込む掛け声)。
しかし今回、大阪から飛行機で札幌に向かったため、つまり、南北にズバッと1.5時間という、カップラーメンでいうと、クイックワンのようなお手軽さで移動してしまったため、ややもすると、ぱさぱさに乾いた、しらけたような感情が私の心を支配していたようであった。
さらに、日付変更線を超えなかったためか、たいして時間の感覚というものがずれないというか、体内時計や腹時計方面もやはり違和感がなかった。
これらの事実AとBから、拙速かつ無理矢理に導かれる演繹的結論Cは、「地球の自転と正反対に、西へ西へとニンニキニンと超音速機で飛べば年齢さえも若返る」ということである。
自転という地球の行動が我々の細胞、ひいては年齢を、刻一刻と働かせ老化させているという想像はそれほど奇抜ということはなく、人間の営みなんて所詮それくらいのものである。

ちなみに、昔自転に逆らって中国へ向かった船の名前は新鑑真号。
鑑真といえば、その昔、唐から日本へ向かうのに何度も遭難し失明、故郷には二度と帰れなかった唐招大寺の高僧である。
一人旅の若者には、その、ヒトをコバカにした歴史的事実と船名が、心理的圧迫要因となっておしかかっていたのを思い出す。
そして今回の札幌往きの飛行機は、JAL571便。
来ないことはあっても着かないことはないだろう、という感じの、平和ボケ的な名前の、オチとしてはなんとも頼りない航空便であった。
例えばバミューダ505便なんて、グローバルな不確実性がとってもいい感じだと思うのだが、航空会社も営業努力を惜しまず、いま一歩の精進をしてほしいものである。





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