海洋空間壊死家族2



第38回

アトラス   2004.2.9



巨大なペンペン草が
夜空をひとしきり引っぱたいたあと
散々と黄色い葉が降り落ちて
街を歩く人々は
頤首まで葉っぱに浸かって
地面に同化しながらも
それでも夜空を見上げていた



人間はなぜ生まれてきたのか、何のために生きているのか、なんて疑問を大上段に振りかぶって考えても、それはあまりに無駄で怠惰な3分クッキングの、つまり過程も結果もてんでばらばらで無意味であるという結論が、幾重にも連なった襖の一番どんづまりの床の間にそれこそ掛け軸の一本でも吊るされているような、苦労したワリにはなんてこともないそんな結末が見え見えな問題なわけであるけれど、実際生きてきた過去とこれからの未来を考えるにあたって、人間にとって一番重要なことはつまり「排泄」である、というのはいささか突飛な発想なのであろうか。
人間のやってる行為の中で、青史に名を残すとか、自らの遺伝子を後世に託していくとか、そんな全生物的見地から見て無意味なことどもを除いて、地球という星のライフサイクルまで考えを巡らせたとき、その歴史に影響を及ぼし、何かしらの足跡を残していることといったら、いわゆる食物連鎖の中での「排泄」が最も顧みられるべき栄誉と勲章なのではないだろうか。

人間の快楽というのはその割削された穴(目、鼻、口、汗腺・・etc)からのみ惹起されるというのは私の今まで生きてきた経験から導き出される一つの法理なのであるが、実際耳掘ってるときとか、おしっこジョーという状態というのは一種のトランスにも似た、人間の有認識思考概念における至福の最重要形態ではないか、と私つね日頃こう思っているのである。
そしてなぜ快いのか、という快楽の大本をたどってみると、その人間の地球規模での有為なる行動を源流としているからである、というのはまったくうがった見方とも言えないのである。
つまり、水がなぜ無色透明なのかという問いの理由は、それは人間の需要に対する結果であってその始源的根拠ではない、簡単にいうと、無色透明だから飲むのではなく、飲むから無色透明なのであるという解にたどり着く。
そういう人間の生物学的摂理から見てもうんこおしっこが快いというのは別に奇異なことでも何でもないわけである。

さらにいうと、日頃ストレス社会に介在して欝屈した思いをその暗黒色の心の石の下に沈め貯めこんでいる現代人にとって、トイレに入ってその思いと肉体の緊張を解放しさらけだす恍惚のシャーマニック状態というのは、それ以上に、蟻やダンゴ虫やハサミ虫もびっくりの、突然の日の光にオタケビをあげる激流と奔流のほとばしりにも似た感覚なのである。
そういうと大げさだけれど、具体的には、おしっこやうんこをするときのその尿道や肛門の「わななくような悦び」というのは、恥じらいと虚飾を廃した人間の本能的感想としては最高のものなのである、という気がする。
まあ、もっと簡単に言うと、俺っておしっこやうんこするのって好きなのよな。

そんで、やっと本題に入っていくけれど、ミズカラの領地領海である自分ちのトイレでその行為をするのは日常の生活の一部分であるからともかく、そのテリトリーを一歩出たが最後、その逐一の行為というものは、自らの意識の葛藤のうえからも、さらに、他人格とのせめぎあいの関連からいっても、一言では言い表せない一つの心理学的問題が存在するのである。
つまり、ヒトんちや、公衆トイレでコトたりんとすると、いろいろな方面から艱難辛苦が噴出して、もー一筋縄ではいかない!という話なのである。
まず、公共のトイレというものはその区画の中に、いくつもの個体の行為を奨励する仕掛け、つまり、いくつも便器がある、というところがまず悲劇の始まりである(当然ながらこれも男のハナシね)。
ゲートを通り抜けるとそこには、「さあどの便器で排せつするのかなあ?ぬぅぅーん?」という挑発的とも病的ともいえる選択の自由というものが待ち受けている。
例えばそれが二つや三つの並びだったらことは簡単で、私なら二つの場合入り口に近い方、三つだったら入り口から最も遠いところ、というのが無意識のうちにも統計的に決まりきった習慣的陣地取りゲームなのである。
ところがこれが駅構内の片隅や、高速道路のサービスエリアのトイレなんかだとことはそれほど簡単ではなくなってくる。
まずそこには一人では一日かかっても使い切れないほどの数の便器がコリント列柱の様に立ち並び、整列している。
つまり、「お疲れ様でした!」あるいは「いらっしゃいませ!」という、ムッシュやミスターを待ち受ける権謀と術数の黒服関係者がそこにずらりと居並び合わせるという状態になっている。
まあ普通の感覚の人間はそこでたじろいで、一番隅っこのほうで、すいませんすいません、という感じで恐縮して用を足してしまったりする訳だけれど、実際には多数の人間が入り乱れてその便器選択争奪のイス取りゲームに参戦するわけで、そこにはある一つの法則が発見されうる。
つまり、よっぽどのことがない限り、隣り合わせた便器で用を足すことはない、一つ一つ間隔を空けてポジショニングをとるということである。
京都鴨川の三条の川辺に「アベック等間隔配列坐居の法則」という世にもキテレツな習性が見られるのは有名な話であるが、そんな一糸乱れぬ集団心理が働いて、老いも若きもその便器とりゲームにおいて必ずそのポジショニングルールを完遂していくというのは、感心を通り越して不気味ですらある。
逆にいうと、ずらぁーっと便器が空いてるのにすぐ横の便器に知らない男がこちらをチラチラ見ながらポジショニングをとった場合、非常に危険な状態であるといわざるを得ないであろう。
そういう意味で私は横に人が立っていると何となくおしっこが萎縮してしまって出てこない、昔はもっとひどくて、誰もいなくてもその突発的アクシデントを警戒するあまり、自宅以外でおしっこできなくなってしまうという病気になったこともある。
つまりここで言いたいのは、公共のトイレというもの、特に男用トイレというもののそのあまりに無防備であまりにデリカシーのない拷問刑罰的な状況を誰もおかしいと思わず黙って利用し続けているというのはいったいどういう了見によるものなのか常々私はいぶかしく思っているということである。
例えば女の人が並んで用を足してるところって想像もつかないけど、男にはそういう基本的人権ともいえる、身の安全と羞恥の権利が認められていない。
ふと振り返ると、睫毛の長いゴツイ男がピタリと背後に張りついてこちらをのぞき込んでいた!というような恐怖の放課後の怪談風状況が繰り広げられたとしてもまったくおかしくはないのである。

そうはいっても、さっとトイレに入ってさっと用を足すというさっさっさっのワンストップアクションの立ちションって楽だからいまさらねえ・・というのも真理であるのであるが、しかし、その一方で、ご家庭のトイレでも、男にとってある意味差別的かつ迫害的仕打ちが無意識のうちになされている、というのは恐ろしい事実である。
単刀直入にいうと、「あの洋式トイレって皆さんどう思ってどう使っているのでづか?」というのが十年来の私の根本的な疑問なのである。
まあそのダルマ河馬のアホづら形態と、そこで立ってするおしっこの難しさについては昔どこかでぐじぐじ述べたからそれはおいといて、それよりなにより、最近ではなんと男の子にも座っておしっこさせる向きがあると聞くが、ちょっと待ってほしい。
あれは男が座っておしっこするようにはできてないと思うのですよ。
たしかに男が立って小用することによってトイレは10倍汚れるという意見には反論できないところがあるが、しかしあの形態で座ってしろといわれてもそれは無理難題である。
ちんちんが肛門のほうを向いている動物には可能でも、一般的人間男子にはあまりにやりにくい便器構造であるといわざるを得ない。
私なんかともかく、馬やクジラのようなおちんこしてる外人風男どもというのはいったいどうしているのか、グリップホース式で便器に先端が触れないようにチビチビ狙いを定めてやっているのか、何か専用の器具を使用しているのか、実際観察して参考にしたいと思っているのは私だけなのであろうか。
それとも私一人とんでもない間違いをおかして一般とかけ離れた、無理にやりにくい状態で体内不純物吐露行為を行なっているだけで、じつはタメしてガッテンの驚天動地の西欧常識式やり方というものが存在するのであろうか。
一度ネイティブの外国人講師を招いて本格的にレッスンしてみたいと思うのである。

以上のような考察を踏まえた上で、というより、まったく文脈を無視した上で、トイレと排泄欲の権化である私めの選ぶ、栄えあるニッポン個人的トイレ選手権の優勝トイレは!というと、それはリッツカールトンのトイレ(オフィシャルなほう)である。
なんてったって豪華だわよねぇー・・となぜかオバサン化してしまうほどあのトイレはすばらしく気持ち良い。
まず入ったときにトイレ全体が俯観できない、さらには「ここは3LDKか?」というくらいの複雑な間取りをしておって、もっというとかなりの確率で私の邸宅より広かった。
しかも何か暗示にかかっていたのかそれとも酔っていただけなのか、トイレから出れなくなって迷ってしまったというのは我が人生においてあれが最初で最後である。
神隠しというのはああいうことをいうのではないだろうか。
二番はハービス大阪のトイレ。
物販フロアにもトイレにもまったく人がおらず、本当に心底安心感の上に排泄を完了した、というのはここ最近では文句なく一番で、本来の排泄の目的を完遂できた感動はいまでも心に残る名場面である。
逆に水流音が静まりかえったフロア中に響き渡っていたのではないだろうか。
三番は福井県の国道の道端にあったトイレ。
川中美幸の曲がかかるは、鳥がさえずるは川がせせらぐは、もう最高の使い心地でしたわよ。
たしか黒白の玉石の葺いてある床の合間に篠竹も植えてあったな。
特別賞は北千里線新大阪のJR側のトイレ。
なんやかんやいっても、やっぱりトイレは実用性と緊急性によって評価されるべきなのである。
その節はお世話になりました。





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