|
第37回
英雄 2004.1.29
英雄も死んだ
説明口調のおまえは誰だ
白馬に跨り辺りを聘睨する
その腰には手鏡がぶら下がっている
全ての行動にもったいと言い訳を張りつけて
熱狂と歓喜のなか英雄が歩いてゆく
英雄も死んだのだ
昔「ヒーローは眠らない」という深夜テレビ番組がMBSでやっていて、マジンガーZとか、サイボーグ009とか、つまり昔のヒーロー(ヒロイン)番組を1週間に一度、一挙再放映しては、午前3時の有閑ムッシュウ達の無聊を慰めていたことがあった、というのは有名な史実である。
そして1日3話分づつ30分×3=1時間半繰り広げられるその急ぎバタラキにも似た疾風怒濤のストーリー展開は、子供の頃に見ていた視点とはまったく異なる対岸からの視点で鑑賞できる、つまり、小さいときには気づかなかった主人公の内面心理や、登場人物の心の葛藤や変遷を大人の自我を備えた目で鑑賞できるというところに、この深夜番組の醍醐の味があったのである。
ありていに言うと子供の時って、変身変形の過程と、ロボットや超人が出てきて悪い奴をやっつける、という単純ストーリー構成しか見てなかったから、改めてこの年になって真剣に最初から最後まできちんと見てみると、そのあまりの感動巨編の大河ドラマにややもすれば涙がゴウゴウあふれ出てしまったりして、作品自体の出来ばえと、作成者の意気込みとに思わず心からの拍手を差し上げてしまったりするもたのしおかしい心象風景であったわけである。
ま、最近でいうと、夜12時には寝てしまう健康オヤスミ家族の一員として活躍する身であるので、その時間帯がどうなっておるのか知る由もないのであるが、ああいう子供番組にも五分の魂というのか、それ以上に人生や人間を語ってしまう度量があることは否定できない事実である。
だいたい今まで生きてきたなかで影響を受けた人物なんていうと、実際、坂本竜馬とか、エジソンなんて偉人よりも、風見しろうとか、阿修羅男爵とか、アミバとか、そういう三文(失礼)キャラクターにこの全人格は左右されている可能性の方が大である。
そして、そんな言い訳じみた考察はともかくとして心の奥底から染みいだしてくる感情の吐露として、「ヒーローもの最高!」と叫ぶ自分に、惜しみない賞賛の光あれ!という全面肯定の宗教的恍惚があることに最近気がついた。
「最高ですかー?」という問いに「最高でーす!」と答えてしまうような貧弱な文化力も問題だけれど、しかし、このヒーローものというのは個人の趣味思考の範囲レベルを超越した、ユニバーサルデザインのすばらしさを内包していて、これはもう、「最高でえす」と答えざるをえない、ある意味由々しき問題なのである。
そして考えるも至福のその範疇に関して、やはり一度、明確にジャンル分けして整理しておく必要がある!という粛然たる新年の決意をもとにこのたび「輝けヒーロー大全」というような下世話な感覚のものを一つ死ぬる前に書きおいておこうと思ったのであった。
ほんで、単純に「ロボット合体もの」とか、「レンジャー5人組集団リンチもの」とか、あまりにありがちな分類基準でそれを行なったのではまったくおもしろくないので、ここでは、主人公の心理的内面的区別により分け分けしてみたいのであるというのがなんとも新しいワクワクしちゃう試みである。
そのような感覚のもと私の極私的な判断により、並べ立ててみたものが次の結果であるので、ま、興味のある人は見てくださいな。
ということでいってみよー!
1.アメリカ型
一番ありがちな類型で、毛沢東的あるいはケ小平的と言ってもいい。
鼠を捕る猫がいい猫だ、ということである。
おおよそ他人の都合や、その排外対象の言い分なんてものに興味はなく、自分の正義が全世界の正義であると信じて疑わないその強引な手法には驚きを通りこした憧れさえ感じてしまう。
正義の断罪を行なう主体としての権利を意地でも守り通そうと「悪」と戦う抵抗勢力として、いまクローズアップされている。
ウルトラマンや、コンバトラー、マジンガー、ギャバン、ゴレンジャー、ヤッターマンなどもすべてこの範疇に含まれる。
ウルトラマンはときたまその自分の剛腕型一方的姿勢に疑問を感じてしまうことがあり、その戸惑いを見るのはなかなかおもしろい。
たしかに怪獣が出たからって別になんでもかんでも殺しちゃうことはないと思うのだよな。
レンジャー実写グループなんか一人の怪人相手に五人掛かりで集団リンチを加えたりして、あれが今現実社会におけるいじめの基礎になっていると思うのは私だけなのであろうか。
群れを形成して、自分たちの正義にあわない=気に入らない奴を見つけだし、排撃し、掃討する、という思想はあまりにそのゴレンジャー的考え方に酷似しているのである。
さらに言うと、ここで自らを悪の組織とかアクダマンなんて名乗っている人々も、何をもって悪と認識し、何を行なおうとしているのかがイマイチよく分からない。
例えば「人類の半分を強制的に死刑抹殺する!」とか、「晩酌のビールの量は全人類一律350mlとする!」なんて横暴かつサタニックな政策というものを掲げていた場合、かなりの割合でその反駁感情と悪玉率は上昇するのであるが、実際には、彼らは「人類を支配する!」とか、「世界の秘宝ドクロストンはあたーしゃ様のものよホホホ!」とか、実生活において我々にあまり影響のないような抽象的欲望を表明するだけで、その悪のコワモテ強姦率は極めて低いものといわざるをえない。
そういう、形から入って中身はくちゃい田舎の暴走族のような擬悪趣味の悪の組織がそのヒーロー番組内の悪役の8割方を占めているという実態もあり、政治家さえマニフェストなんて言ってヤル気を見せている時代、たとえ子供はだませても大人はだませないぞ!という強がりが我が心の窓を厚く覆っているのである。
2.仮面ライダー型(石ノ森章太郎型)
この型は、主人公に一種の悲しみというのか、諦念、無常の心が焼き付いている、という点が特徴である。
例えば仮面ライダーは悪の組織に手術され悪の組織の手先として暴れるサダメだったのであるが、そこから逃れて、いまでは人間のために戦っている。
その上で、人間に姿を似せて社会に紛れ込み、人間世界には受け入れられないであろう我が身をもてあまして、タメ息ついてひっそり暮らしている。
そういう、挫折を味わった主人公の繰り広げるドラマというものは、それがたとえ単純な一話完結の怪人ぶっ殺しビデオであってもなかなか味わい深いものがある。
「学級委員長には決してものごとの善悪は分からない」というのは私の持論(思い込み)であるが、実際、アクマイザー3やデビルマン、鬼平犯科帳なんかをみてるとその思い込みもあながち独善的でもない気がしてくる。
やはり、もし正義をカタるのなら悪の論理を一度噛み砕いて自分のものにしておかないと、その純粋培養の正義は張りぼて式の薄っぺらな正義になりかねない。
いい例がレンジャーシリーズの赤である。
レッド何ちゃらの言ってることってホント上っ面だけの、正しいから正しいんです!というような官僚タイプの優等生的反応で昔から嫌いだったけど、あの明るく正しい熱血漢というのは実際身の回りにいたら煙たいですぜ。
子供心にもあからさまに腹立たしいというのもワリないことではなかったわけである。
逆にいえば、底辺から這い上がってきたヒトの繰り出す言葉というものは、妙に説得力がある、というのは世の中の真理である。
最近また仮面ライダーが日曜の朝にシリーズ化放映していて、それを3シリーズほどずっとライダーウォッチングしているのだけれど、やはり主人公が自身の過去や生い立ち、仮面ライダーに変身することに対して憎悪に似た軽蔑と深い諦めの心を持っているかどうか、という一点がそのシリーズを良くも悪くもしているということに気づいたのである。
そういう意味では今回の仮面ライダーファイズはなかなかの出来である。
主人公は長髪の保坂尚輝だけんど。
3.ガンダム型
えーと、これは良くも悪くもストーリー重視の、ある意味連続ドラマ小説的な、緻密な考証と深い人間洞察を基に作られたヒーローものである。
例えば、鋼鉄ジーグが鋼鉄から作られているとしたら、ガンダムはガンダリウム合金でできていて、アトムがマッドサイエンシスト天馬博士につくられたとすると、ガンダムはアナハイムエレクトロニクス社という民間企業が製造したモビルスーツである。
さらにコンバトラーが超電磁スピンしている頃、ガンダムではミノフスキー粒子の濃度レベルを上げていた、というような、実社会よりも詳しくその科学事実関係がアリバイ工作されている、追究していったらほんのチョイ役の家族構成なんかも判別するような、そんなどうでもいいような細かい背景から練り上げられている、子供には理解しがたい製作内容レベルなのである。
であるからして、そのストーリー展開上の正義と悪というものも曖昧な線引きで、逆にそのあたりは見ているものに任せるというのか考えさせるというのか、単なる勧善懲悪でないところが特徴的である。
だからこれを見ているのは小学生高学年から中学生のオニイさんたち、という感覚があって、逆にこのあたりのものを見出すと、サンバルカンなんて見てられっかよ、というような中途半端なドングリズムに陥る羽目になる。
この類型はほぼサンライズ社という製作会社が独占製作しておるのであるが、難点は一つ、一回見逃すとなんだかストーリーについてけなくなって、やる気なくしてしまうというところである。
実は最近の戦隊ものや仮面ライダー、ライディーンも徐々にこのガンダム式になってきていて、その理由はというと、お父さんやお母さんが子供といっしょになって観ていて、その顧客満足に気をとられ始めた製作側が、意図的に連続的ストーリー性を持たせて大人も集中して楽しめるように作っているのである。
だから仮面ライダーの主人公や脇役なんかはホント昔では考えられないような、ファッションモデルのようなかっくいい男女がやっていて、藤岡弘や大葉健二なんてもう一切オヨビではない。
仮面ライダーというよりは仮面舞踏会、デカメロン伝説という感じ。
そしてそのキメまくっている方々が日曜の朝8時から熱くて切ないメロドラマを繰り広げたりしているのを、寝惚けまなこで見せられるほうとしてはたまったものではないわけである。
とはいうものの、はっきり言ってこの私もその罠にはまって毎週子供より早く起きて放映チェックしておるのであるが、これは絶対子供には理解できないという自信があるね。
だいたい、内容濃すぎて場面変わりすぎて登場人物多すぎるで。
人間はどこから来てどこへ行くのか、みたいな重厚かつ遠大なテーマをかぶりものが一生懸命追い求めているのが痛々しいのである。
そして内容が内容だけに1、2週見逃すとホント意味が分からない。
ま、子供には何の問題もないんだろけど、9割方観てた番組が最後意味わからんまま終わるのって、今のワシニハ腹立たしすぎるのだ。
つまり、いろいろ言ってきたけど、結局何が言いたいかというと朝の貴重な時間を返せということである。
|
|