海洋空間壊死家族2



第35回

愛憎   2004.1.17



愛しかればその繁栄悦楽を祈り
憎かればその没落苦悶を怨詛す

そも愛憎の嶺わかちたるはいかならんや

通ずればその滯落は錘の先なるがごとく
日々定まりたる想いあらずして
海砂のごとき瑣末にても侫したらんに
いずくんぞ愁波送るべけんや

通じざるにしくなく
愛しまざるにしくなし



その昔、「愛」って何?と実の妹に訊かれて、はぐはぐっっと心の動揺もあらわに、何とは覚えていないけどさもあらぬ方向の視点と言動で、はんぺんとゴボ巻きなんかを適当にみつくろって答えてしまったことがあって、それは多分に兄貴をからかった幼い残酷な女の本性だったのだろうけれど、実際「愛って何だ?」という疑問については、かつて死海文書ギャバンの手紙にも記されたように「ためらわないこと」と答えるのがその愛にあふれる霊長動物人間としての必要十分条件であるのであろうことはこの酔っ払いにも見当がつく。
ほんで日本において、愛というものを考えるにあたって何に留意すべきかというと、まず仏教的側面から見ると愛というのは忌むべき執着、煩悩であるというような感覚があるからそちら方面ではアウトで、じゃあ、ということで今度は儒教的側面から見ると、これは仁義とか忠孝とか、つまり愛というものに正面から向き合ってはおらず、逆に言うと、愛なんて口にするも恥ずかしいというような封権的サムライ叙情というものが我々の心を3割がた支配している、というのも否定できない事実である。
というところから考えても、愛という言葉が一般的に流布するのはやはりキリスト教の全日本的広がりがその発端となっているのではないか。
そして男は黙ってサッポロビール、というような日本男児の地味ながらぐっと来る心意気というものを駆逐し、絶滅の一途の運命の坂道へと追い込んでいったのもこのキリスト教徒の愛という概念だったのではないかと私は考えるのである。

そもそも現代日本人のいうところの愛という言語物体は、肉欲的な面をコトサラに踏まえつつも、多大にキリスト的な無償の献身の愛というものを前提としているような気がする。
その辺の地下鉄の駅の隅にマッチ売りのごとく座り込んだ男女が、ラブラブよーという表情でジュウシマツのように肩を寄せあっているのにしたって、純和風の異性間交友の雰囲気はまったく無く、キリストタイプの粘着密着の酵素と補酵素、凸と凹としての愛を基本としている様がありありと表れている。
そしてその愛という言葉のキリスト教的意味としては、明治時代に山本某がその概念について「愛」と訳したのが最初とかなんとかまことしやかに伝えられていて、それではと、出典となるところをひもといて、実際にアジア的な歴史で遡ってみると、私の知る限り、愛という単語が出てくるのが、孫子だか呉子だかの軍事評論書に書かれていた兵士の扱い方其の弐みたいな項目が最初であるように記憶している。
つまり愛とはまさにその当該対象の人間を思うように動かす、あるいは思いのままにするために処方として精神的に待遇することがその嚆矢なのである、というところが西欧社会の基本精神とはかけ離れたあまりに人間的な、あまりに打算的な事実である。
そして映画や、メロウなラブバラードや、あるいはさまざまな人間ドラマの中途において、「愛している」なんてセリフを耳にするたび、私のその主観的興味というものは漸減、ケッという舌打ちとも喉打ちともつかぬ撥音とともに、砂場にしみ込む水のように雲散霧消していくわけである。

そういうことからいうと、幻想的「愛」というものについては、隠れキリシタンや、うら若い純愛少女が何を言おうとも、そんなものは人間の生きていく上での手段と無意識の権謀術数にすぎない!とかたくなに思うのだけれど、実際問題としては人間の好き嫌いや、性欲、あるいは子供をかわいがる心情など、それと似て非なる自己愛のヘンゲというものが存在することは私も承知している。
そういう動物の飽くなき生存競争上のカーチェイスとしての本能を「愛」と呼ぶことについては私のような非人間的人間もやぶさかではないのである。
そして最近、その一般的には「愛」と呼ぶであろうその人間の気配りの対象というものが、実はそれほど大きいものではない、というよりは同時多発テロ的にいうと、最大1.5人まで、というあまりに絶望的、あまりに意気消沈の狭隘な心根であるという事実に我々探検隊は遭遇するのであった。

例えば3人で喫茶店に行ったときと4人で行ったときの状況というものを思い出してみてほしい。
その話題の盛りあがりや、連帯感はともかくとして、何か発言したときの対象、親密感などの点において、そこには経験測として隔絶した農淡があると思うのである。
X=1.5/(N−1)
上の式はまさにその発言者の発言対象の広がり具合と意識の拡散を示した一番単純な式なのであるが、このN(場面存在人数)が大きくなればなるほど発言の意図と気配り(X)は極小拡散し、稀薄化する。
例えば広い会場で3000人の聴衆を前にしゃべる人間というものが、前から3列目の右から12人目久保コウゾウ君の家族構成なんぞに気を払ってしゃべるような事態が考えられないくらいにその話題の直截的具体性は薄まっていく。
もっと具体的な話で言うと、例えば合コンに行って気にいった異性が2人いたとする。
その2人に同時アタックすることができるか、といえば、その微分積分的可能性追求を実利的に考えると、1人に的を絞らなければやってられない、という事実にもつながってくる。
つまり、自分の熱情や好意、応報的双方向結合性を追求する対象として「2人」というのは案外難しく、かといって「1人」というほど狭量でもなく、ある意味、主客たる1人プラス従属的客体1人の合計「1.5人分(当社比)」というのが人間として応対できるぎりぎりの範囲可能性なのではないだろうか。
その限られた資源をそこに居合わせた人数でバランスをとりながら人間はコミュニケーションをはかっているのである。
この対象人数を3人とか4人とか、あるいは無限大に拡大できる人間を我々は天才と呼び、そしてその天才はほぼ間違いなく宗教を起こしているのである。

まあそれはともかく、私の身近な例でいくと、子供のかわいがり具合、というような卑俗かつ足許の問題もこの法則に縛られ、地引き網やおもちゃの缶詰めのごとくもれなく影響されているのである。
2人目の子供ができると、1人目の子供が寂しがるのは自明の理であるから、そして、その寂しがった子供は必然的にヒステリックないやらしい大人になるというのは実際に見てきた兄弟としての歴史的事実であるから、意識的に1人目の子をかわいがろうとするのであるが、実際問題として、生まれて間もない、何もできなくて手のかかる2人目の面倒を見ていると、1人目なんてかまっている暇はなく、傍目に見ていても性格がいじけていく様がなんともいじましくかわいそうなのである。
そして本を読んであげるという行為ひとつとっても、一人一人持ってくる本が違い、2つの本を同時進行的に読んでいく、という行動は私のような裏表のないまっすぐな人間にとってあまりに混乱するストレスの溜まる行為なわけであって、どちらかというと2つのうち1つに意識は集中してストーリーを追っていて、そのあたりの感情の揺れも子供は敏感にキャッチするから、いい加減に読んでるほうは泣き叫んだりいじけたり見事にその1.5人分の正しさをアピールしてくれるのである。
この0.5となったほうは0の時よりもその寂しさ、怒りというものが増幅されてくる、というのも特徴的である。
私自身は3人兄弟で、ここでもその1.5の法則というものは証明されており、私が18にして家を出た後の家族のおさまり具合や、ほかの姉妹の親からの関与具合をつぶさに見ていると、まさに1.5人分しか人間にはその愛情の対象は許されていないのだ、ということがよくわかる。
そしてそれは恋愛や男女の情にも普遍的に適用されるきらいがあって、例えば、私がサラリーマンとしてつきあってきた上司の、飲み席での愚痴なんぞを聞いていると、そのオシドリ夫婦の仲に亀裂の入るきっかけは子供が生まれたこと、子供の教育方針によることが過半数を占めており、それまで互いに1.5の愛情を注ぎあってきた夫婦間均衡が、子供という愛情の分散、あるいは移転対象の出現によってひきおこされているのである。

さらにいうと、別に奥さんが嫌いになったわけじゃないけど、よそで1.5人分の愛情を注ぐ、という実験に成功したものはやはり多いようで、その1.5は時間空間的に離れておれば問題はない、という事実も特徴的である。
つまり、それらを総合して考えると、むかし理科の実験で、電池というものは、直列つなぎにしていくと電球の明るさはだんだん暗くなっていくけど、並列つなぎだと明るさは変わらない!というような科学的事実にもつながる考証もあるわけである。
私としては経験がないのでなんともいえないが、確かにそのような、電池でいう並列つなぎだったら100Wの輝きを同時に実現できるようなそんな予感もある。
まあ実際にはその電球が互いの存在を知った途端にその輝きのワット数は限りなくゼロに近く微分していき、二度と上昇することはないというところが恐ろしいけれど。
これを翻って子供との関係に置き直してみると、思い当たることが幾千もあって、なぜか子供は親と二人っきりになろうと部屋の隅や家の隅の陰のほうに連れ込もうとする、というところが、むかし独身の時にされたかったなあ・・というよく分からない感慨を胸に浮かばせては消えていくウタカタの日々なのである。
つまり子供はその本能でもって親と二人きりになればその1.5を独占できることがよくわかっていて、二人きりになろうとしているのであるな。
逆にいうと直列つなぎの薄まって暗くなった愛情なんていらねえよ、という話である。

ということで演繹的結論としては人間の愛情というものは1.5人分でしかも並列つなぎである、という事実がここに証明されたのであるといっても過言ではない。
つまりやみくもに2人きりになろうとする異性には気をつけるように、というのが今回の箴言なのである。





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