海洋空間壊死家族2



第34回

皇帝   2004.1.8



全生物の霊長
全人類の王
そして王の中の王たる
皇帝が雑踏を行く

全生物を虐げ
全人格を倒錯し
気づけば仲間は消えて
いつも一人

小さき命を弄び
弱者を罵倒し
仲間内の評判にびくびくする

全ての群れの最高尾
皇帝が尻馬に乗ってゆく



「下町のナポレオン」というフレーズがあって、これはある種の人々には絶大なる支持と知名度を誇る大分の麦焼酎「いいちこ」の30年選手のキャッチコピーである。
この「いいちこ」にはアルコール度数で20、25、30度の三種類があって、ある北海道のうら若き乙女が場末の居酒屋で「20度のは水だな」とうつろな目でつぶやいたのをいまだに鮮明に覚えているけれど、実際焼酎飲みの間では大げさに「これ」とは言わないけど、人気酒ランキングなんてのを作った場合、日頃飲んでるお酒ナンバー1、お父さんがよく飲むお酒ナンバー1、コンビニでよく買うお酒ナンバー1等々、やっぱりDHCだね、というダントツの一位に入賞するであろう実績と実力を兼ね備えた麦焼酎なのである。
確かに焼酎貴族トライアングルの後にこれを飲んだときの甘さと旨味というものはなんとも信じがたいほどの格差を持って我々に迫ってくる。
出汁を取ってない味噌汁と伊勢海老の入った赤だしくらいの落差と位置エネルギーによってその味覚的滝壷は抉られていくのである。
しかしそうは言っても、もともと焼酎というのは、最近払拭されつつあるようだけど「安酒」というイメージが酒飲みの間で定着しているので、そのウマサを喧伝するにあたって、なんとも言い訳がましく、というのか、ちょっとしたばったもん的な言いようで、つまり、日本のマラドーナ、とか、日本のプレスリーとか、そういう卑屈で上目遣いの追従笑いの多分に含まれたフレーズをこの「下町のナポレオン」という8文字に滲ませているわけである。
で、分からない人がいると話が先に進まないので、さらに説明口調でいってしまうと、「ナポレオン」というのは今ではそうでもないけれど、昔、客間のサイドボードの奥のほうなんかに鎮座した、洋酒としては高級部類に入る、つまり滅多なことではお目にかかれない、「母さんあれがあったろう」というくらいの最高級コニャックであったのである。
その深い色のガラス瓶の表面はビロウドの様な神々しい手触りで、なんともまあ、気品ある、決しておもねらない、ひざまつかない、たさない、ひかない、そんな不可侵性を感じさせる起居振る舞いをしていた。
ただし、昔は洋酒というだけでみんなに憧れをもって迎えられたような、進駐軍に対するギブミーチョコレートのような、無批判な尊崇と服従があったことは否定できないから、単純に現在とは比較できないだろうけど、しかしそれ以上にレミーマルタンとかジョニ黒なんてのとともに、最近までは水戸黄門の印籠のような、老若貴賎にかかわらず威力を発する、迫力と威厳を持った正しいお酒だったのである。
当時の基準としては、中高生の時に家の親父の酒を拝借してくる獲物としては最高に盛り上がる、出すときにある程度のもったいの着く、ヒロイックなお酒であった。
しかしいつの頃からなのか、そして何を理由になのかあまりはっきりしないままにそういうバブリーな洋酒の銘柄というのもみるみる剥げ落ちて、まるでマクドナルドやケンタッキーフライドチキンが手軽で下世話なファーストフードに成り下がるのと時を同じくして、誰でも飲めるレジェンドや純、その他ディスカウントな安酒と肩を並べるような頻繁な露出をさらけだしてしまって、今では酒好きの間でも鼻つまみの、特に昔日威張っていた堕ちた成金を蔑むような卑しい心がテントウ虫の橙色の分泌物のごとき微妙な分量をもって当方にもあることは否定できないから、そういうわりないといえばわりない嫌煙感が我々の心を支配している。
つまりロシアに破れた後の、冬将軍によって一敗地にまみれた感覚がナポレオンという酒の本質的語感に染みついて、その後の戦争には勝てなかったというようなそんな負け犬イメージが取れなくなっているのである。
そういう微妙な感覚の中、「下町のナポレオン」ということで、それは下戸にとっても上戸にとっても、ちょっと聞きでは聞き流してしまうようなどうでもいいキャッチコピーだけれども、ここで酔っ払いのクダまき気味の冷静な深読みを繰り広げてみると、なんだか「とてつもなく馬鹿にされている」ような気がしないでもない。
下町、というのはご存知の通り、その係り言葉の対象を低める卑下あるいは蔑視のニュアンスが多少なりとも含まれている。
山の手に対する下町、たとえば「こう見えても下町生まれの下町育ちですのよ」なんて、自分のオリジンを低めてその本質を実際より高く見せようとする複雑な心情を表わす言葉なのである。
大阪に上本町という地名があるけど、これほど卑屈精神のおたけびをあげた心のねじくり曲がった地名ってなかなか無い、と思うのは私だけなのであろうか。
そういう意味では「下町のナポレオン」とは、まあそういう「ボロは着てても心は錦」的な自尊心のチラリズムなんだろうけど、実際平成の今となってはナポレオン自体が「下町」化してしまっているから、恥の上塗り、明治維新後の佐幕朱子学派のような感覚で、これは最近あった話でよく似たもので言うと、天王寺の青空カラオケ、というのがまさにピッタリくる感覚である。
行政が撤去命令を出して、こんな紙切れ一枚で出ていけるかい!と不法占拠を正当化して居座ろうとしていた、最近のあの騒動である。
つまりあの青空カラオケ民族は世の中ではまだカラオケが大ブレイクしていると思い込んでいるような感覚がありありとみえて、なんだか言いにくいけど遅れてるというよりお気の毒という感じ。
天王寺の動物園の横ちょの公道でひっそりと営業してるけど、その内実は紫綬褒章も間違いないような世界遺産的文化活動をしてますのよー、という感覚と、下町で飲んだくれてるけどその味と品質はかのナポレオンも真っ青でさあ、という感覚はまったく似て非なるものではない。
寄らば大樹の陰の大樹は腐って空洞化しているのに気づかずにそのうつろな権威を背景に威張り散らそうとしているところが見ていて痛々しい。
そういう考証をもとによーく考えてみると、特に、飲んでる酒が下町のナポレオンといわれるならまだしも、飲んでる自分自身が下町のナポレオンなんて言われた日にゃあ、ちょっとした憮然たる怒りの芽生えが萌芽してもおかしくはないような気がする。
この貧乏神が!と言われるような感覚にも似ていて、社会に必要のない鼻摘みもの、ゴロツキ、ホームレスと言われたに等しい。
それを酒を売る立場の、つまり酒飲みの側に立つべき立場の人間がそういうこと言っちゃあまずいわな、という話である。
まあ酔っ払いなんてシラフから見りゃ、まさに「下町のナポレオン」のような感じで、犬が自分の尻尾にいらついてグルグル回るような、猿が鏡にうつる己が姿を見て威嚇するような、アホの堂々巡りの馬鹿ばっか、という感覚なんだろうけど、しかし酔っ払いに変身する前の酒飲み人間というものは意外にもその矜持たるや、峨眉山に住まう仙人や崑崙に座する西王母の様な気の大きいモノどもが多いから、その些細な言葉の知恵遅れにも敏感に反応してしまうのである。

ということでこの私めも一人でぼーうっと焼酎(いいちこ)を、空いたグラスに注ぎながら、あんた下町のナポレオンって・・ヒトをバカにしてんのか・・と勢いのないオドロ目の突っ込みを入れつつ、しかし酔いのマワッタ頭はそれ以上の脳の深耕と心の昂ぶりを抑えて、眠りの森の奥へそのまた奥へと、わが敗北と陶酔のラプンツェルイメージをいざなっていくのであった。





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