海洋空間壊死家族2



第32回

紅衛兵   2003.12.18



赤月の投影そ
ぬめりの血痕を蒸発せしめ
火星の煌耀そ
生肉の憎悪を覆い隠さん

青は黒に塗られ
徳は恥に塗られ
美は醜に塗りつふさる

おのつから同源のものなりや
光は影になしますこそあらめ



この間、昼メシの着地点を求めて心斎橋をうろうろとしておると、従来であれば、身体測定の順番待ちをするような、つまり従順を美徳と教え込まれた小学生のようにアホ面をしてじぃーっと店先に並んでいた一風堂(有名ラーメンチェーンね)顧客がまったくおらず、「あらまあ、ほんじゃまあ」ということで久しぶりに一風堂に入ってラーメンを食べることにした。
しかしいつも思うことであるが、あのメシヤに並んで食事の順番を待つ行為というものを、果たしてあの並んでいる実物の人間はどう考え、どう総括して自分に納得させているのであろうか。
私は特にせっかちという人間ではない、というより、鶴は千年、亀は万年タイプのコマ送り時間の流れる、ゆっくり走ろう上州路・的人間なのである。
木曜日の朝10時に行ってもナゼカ何十分かは待たされるM銀行S支店の閑散とした窓口においてさえ奇声を発しないレベルできちんと待つ、さらにいうならウキエさんが振り返ってくれるまで僕は何年でも待ちます、というような気の長い人間なのである。
そしてその上で、食文化上の私の立場は「食べれりゃなんでもいい」というそんじょそこらの猫マンマ風の考えとは正反対の、「猫まっしぐらな」実にグルメな九生猫(ナインライブス)なのである。
しかしそんな私でも、あの公道にはみだして並んで食べもんを食べさせてもらう、という行動はこれまでも、そしてこれからもできないと思う。
たとえ待つだけの余裕、時間が何時間あろうとも、食べもん屋の前に並ぶという行動は決してしないような気がするのである。
それはなぜ?と聞かれてもいっさい答えられないほど漠然と抽象的な感覚なのであるが、逆にいうと、あの並んでる人間の心理はいったいどうなっているのであるか。
「おいしいものを食べさせてもらうのだから並んで待つのは当然」あるいは「こんなけ待つんだからおいしいに決まってらあ」、はたまた「行列こそが食事の優劣を決定する、つまりその行列に並ぶ俺ってすばらしい」というような確信を持って並んでいるのであろうか・・?とホント、昆虫の意図や行動なみに予測不能かつ不可思議なので、一ぺんそのような順番好きのヒトに聞いてみたいのであるが、回りにはそういう人間はいないのだよな。

それはともかく、出てきたラーメンを食べているうちに気づいたのだけれど、あの博多とんこつラーメンというのは紅しょうががあるとなしではまったく雲泥の差、月とすっぽん、小錦と小雪くらいの落差をもって味覚的喜びの乖離がある。
紅しょうが、という食べ物について、それほど思い入れがあるわけでもなく、ましてやあの毒々しくもけばけばしい甲高い主張性を持つ特徴というものはあまり誉められたものではないのであるが、しかし博多ラーメンに入れたとき、あるいはお好み焼き、タコ焼きに入れたときのロボコップのようなキラリと光る差し込み感、脳の海馬を揺さぶるようなナルシスティックかつアバンチュールな低刺激というのは、なんとも代えがたい第一級の食材としての立場を保持している。
満員通勤電車になぜか入り込んでいるホステス風女や、ポテトサラダになぜか混入してしまった缶詰めのみかんのように、場違いでありながらなぜかそこにピッタリとくる何かを紅しょうがというものはその本質として抱えているのである。
逆にその存在の外れたそれらの屋台的主食を食べたときの物足りなさと往時の繁栄と栄光への渇望というものは、食欲に付随するあらゆるわがままの中で最高レベルのものである。
昔たこやきパーティーをしたとき、そのパンチの利かない丸い物体を食べていたら、どうしても我慢できなくて、最中わざわざ何キロか先のスーパーまで紅しょうがを買いに行ったこともある。

あの紅しょうがの赤さというのも何種類かあるようで、例えば寿司屋に出てくるのは比較的ピンク色に頬を染めたような、味のほうも甘い感じに味付けされた上品なものであるが、その一方で、これでもか!これでもか!というくらい徹底的に折檻して、やめてやめて!これ以上赤くならないわ!というくらい真っ赤っ赤に色をつけられて精神病棟に放り込まれたかのような感のある紅しょうがというものもある。
そしてその中間に牛丼屋で出てくる紅しょうがというものがあるわけであるが、妙(たえ)なる切望の伴うものはいつも後者、幼児虐待気味の、岩下志麻や冨士真奈美タイプの精神異常(すまぬ)の紅しょうがなのである。
とりあへず一風堂でその一方的紅しょうがの欲望にとらまえられた私の思念は、それが実現不可能であるという事実をもってさらにその激情を昂ぶらせて荒い息などしていたわけなのであるが、実際そういうワキ役のように補完的に見えて、しかしその主体の性格と特徴を左右し決定づけている自民党幹事長のような食材、調味料というものは世界に氾濫している気がする。

例えば似たような立場の食材に「七味唐辛子」がある。
牛丼屋というのは夜更かしして徹夜して朝のしらみとけだるさの中食べに行く、というのが正しい遊興方法なので、最近ではそういう機会もなくなって滅多に入ることができないのであるが、何かの拍子でたまさか入ると、ほんと犬のような素直なうれしさで、出てきた牛丼に唐辛子と紅しょうがを適度に加えて食べ進んでいってしまう、というのは思い出すも含み笑いの木漏れ日の射す食文化の第十七系統である。
それが何も特別な感傷ではなくごく一般的であるという証左もよく見かける。
むかし京都は河原町五条(だったか)の「なか卯」で見かけた若い男は、まず出てきた牛丼の上からフリカケ式の七味唐辛子容器をざぁーーーっとこちらが心配するくらい長い時間傾けて、あらあららと思う間もなくその状態はというと、もう牛が隠れるくらい七味の虹色ハザードマップになっていて、なにか初めて見る動物を見るような好奇の目でその一部始終を見つめていたのだけれど、しかしその男は期待したような辛い!という顔も、どうだ!という勝ち誇ったような顔もいっさいせず、素早く食べ終わると何事もないように出ていってしまったのであった。
そういう極端な例はともかく、七味唐辛子がない牛丼というものは一切考えたくない食事風景ではあるが、さらに、七味を入れずにうどんを食べきってしまったときの喪失感といったらない。
こ、これは・・という感動とともに入った関東風と思われるうどん屋で、まさしく関東風の鰹だしオンリー、さらには濃い口醤油で味付けした醤油風味のきっつい、白色レグホンの様なけたたましい主張を持ったたぬきうどんが出てきたとき、その懐かしさとヤキソババゴーンのような鼻腔を駆け抜ける速食願望により、割り箸のナナメに裂けるのもかまわず、脳内をざあぁぁーと大量のフナムシが走り去るようなスピードと迫力をもって、いただきまぁうぐうぐと食べ進んで、ふぅと食後のヒト息ついたとき、フとテーブルの横を見るとそこにはケヤキの容器の七味があった!という衝撃と後悔の三度笠、というものは何事にも代えがたい心の空洞感がある。
うどん屋のあるじが、調理上の仕上げとして残しておいてくれたジグソーパズルの最後のひとピースを見落として、糊付けして額に入れてしまったような、二度とは取り戻せない幸せな日々を思うにつけて、イヤ増す惨めさが我が心を切り刻み吹きすさばしていくのである。
似たような場面としては、うな重や親子丼のコレハコレハ・・というのを食べ尽くしたときに気づいた山椒筒とか、ざるうどん食べ終わったときに見つけた柚子のひとかけらとか、どちらにしろ単品の一発勝負の食べものにその状況は多発する。
これが定食であったならその器から器への箸の移動が人間を冷静に立ち返らせることもあったろうに・・などというそれこそ冷静な、腹立たしくもイマイマシイ論評はいまのところ必要なく、ただただこれからの単品人生においてそのようなフライング気味の早とちりがないことを祈るばかりなのである。

そのような状況の中、一風堂の濃厚に白濁したとんこつラーメンにはいっさい紅しょうがは入っておらず、あまつさえそのテーブルの上に用意された紅しょうが取り放題のタッパーやステンレス容器というものも見あたらず、私はただ黙々と、そのまずくはないけど、何か心の隙間に挟まったような、フジラテックスの如き微妙な隔たりを感じる固ゆでのラーメンを、しつこいようですけど納得いかないまま食べ尽くしたのであった。





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