海洋空間壊死家族2



第31回

絶対音感   2003.12.9



五七五
七七五七五七五

この最初の五がC♯だとすると
最後の五はDmである

これが噂の絶対音感

冷蔵庫がCなら掃除機はC7
龍がDなら鯉がC

これが世界の絶対音感
宇宙の真理



最近テレビを見なくなった。
子供の時はホントいつまで見ていても飽きることがなかったし、大人になって一人暮らしするようになってからは、何とはなしに部屋のにぎわいの演出にテレビをつけていた。
実際テレビの投げかけてくる情報やイメージの総量というものは、それが意図したものか意図していないものかに拘らず、相当の流域と立方体積をともなう自然災害的な甚大さをもって我々に迫ってくる。
ともかく、昭和という、テレビにとって象徴的な時代のもと、わたしも大海に育まれ揺れるゾエアやプラヌラのように、意識せずにテレビとともに育ってテレビに浸りきって暮らしてきたのである。
しかしその何となくつけていたテレビは、実際には音を消してつけっぱなしにしていたから、いまになってよく考えれば、その頃、つまり自我のメバエ以降、実際の視線対象としては焦点があっていなかった、つまり見ていなかったといってもそれほど不正確ではない気もする。
そしていまではテレビはほぼ見なくなってしまって、何であんなに重くて嵩張るのかよく分からないブラウン管システムは食器棚の上に所在なく置いてあって、まさになくても困らない家電製品の一種に成り下がっている。
だから、というわけでもないのだが、その情報禁断飢餓の反動で、近頃、毎日新聞をよく読んでいる。
いや、毎日新聞をよく読んでいるのではなくて、エブリデー新聞紙を読んでいるという意味でね。
話はついでだけど、「毎日新聞」てほんとおもしろくない、というのは私の思い込みなのか、それとも客観的に見てもそうなのか、というのは興味ある問題である。
だいたいコマわりというのか、段組というのか、ともかくあの紙面構成が決定的に良くないと思う。
段の終わりまで来て、ぱっと直感的に次の段へと目がいったところには決してその話の続きはなくて、おろおろと目が泳ぐあいだにその話の流れがよく分からなくなって、次の言葉は何で始まれば整合性が取れるんだっけな・・などと往きつ戻りつ考えて読んでいるうちに、えーいこんなもの!と新聞をおっぽりだしてしまう事態が頻発する新聞てそれほどない気がする。
そのうえ毎日新聞て、読売新聞や報知新聞や朝日新聞、その他地方新聞ほどの思い入れというのか、主観的立場というものがほぼなく、それが意図的なのか、何も考えてないだけなのか知らんけど、あやふやではっきりしないため、読んでいてうすーい、つまり掘り下げが足りない記事になっていることが多い。
「メディアは中立であるべきである」というのはあれはウソですな。
メディアの主体がその意識を希薄にすればするだけ記事の力、伝達性も薄まっていくものである。
スポーツに興味のない奴の書いたスポーツ記事ほど面白くないものってないじゃろ。
さらに言うと新聞自体も薄っぺらくて、芝生の上に敷いて座ったら湿気がにじみ出てきそうな物理的存在感の無さも堪らない。
ゴミが増えなくていいけど、あれが毎日届く家には棲みたくないなあ、というのが今までの新聞人生におけるわが極私的感想なのである。
さて、冒頭から話がそれて何を話しているんだかよく分からなくなってしまったけど、そうださうだ、テレビなど、音の出るメディアからシャットアウトされた暮らしの上に、なまじっか新聞をよく読むので、その中に出てくる語句というものを我儘勝手に読んでいたらまったく世間とはかけ離れた読み方になっているので驚いた、という話しなのである。

例えば「肉骨粉」。
これは「にくこっぷん」と読むらしい。
この表記を見て一昔前のNHKの子供番組を思いだした人はなかなかいける口である。
数年前、わが娘の名前公募の時に「ポロリ」という案を出してきた奴がいたけどそのポロリが出演していた伝説の実写版動物絵巻コーナーが「にこにこぷん」である。
しかしにくこっぷん、言葉に出して読んでみると、ホントおもしろい言葉である。
早口に読めばどこかイニシエの遊びの呪文かヨソの国のタシナメの言葉のようにも聞こえるし、ゆっくりと読んでみるとなんだか便所や痰壷やその他諸々の排泄物の溜まり場に何かが落ちたときの擬音語のような、まったくサラリとしないまとわりつくようなそんなエゲツナイ感じのする言葉である。
これを食べた牛が気が違ってしまったり、ヨイヨイになってしまっても、それはそれで仕方がない・・とアキラメのつく語感の涜神性動物飼料なのである。
言葉の使われる場面としては、消費者側にも生産者側にも眉間に縦じわのできるような、典型的なヒソメマユ科の言葉だから、まったくもってシリアスなのであるが、アナウンサーの人が「にくこっぷん」という言葉をわりあい真剣なお顔で読み上げているのを聞いていると、北朝鮮の将軍様礼讃のアナウンサーのような、「マンギョンボンゴん」のような、なんだか滑稽を通り越したラフィンノーズな高揚感に気分が楽しくなってくる。

それと似た言葉に「脱北者」がある。
わざわざ「ダッポク」などと面白おかしく読む必要性はないのではないか。
フツーに「ダツホク」と読めばコト足りるのではないか・・という疑念はそれほど奇異な発想ではないと思われる。
しっぽくうどんとか、お風呂でダップンとか、そういう平和で怠惰な六畳一間的語感を東アジアの安全保障の火薬庫の国のネガティブな話題に紛れ込ませる、という行為は何かしら意図的なものを感じるのであるがどうなのであろうか。

そんで振りが長かったわりにはまた話しは右斜め後方に飛んでもうしわけないけれど、「ジョージ・ブッシュ」という語感て素敵である。
言わずと知れた第43代アメリカ大統領のことですな。
あやつと、あやつの国のやってることと考えていることって、なんとも中学生のようでやりきれないのであるが、このあいだ、CNNだかBCGだかあの国のニュース番組であからさまに暗愚櫓策損(ワープロ変換ママ)な顔のキャスター(って我国では家具の下に着いてる車輪のことだけど)が、これまたあからさまに眉間にしわを入れて「ジョージ・ブッシュ!・・」と厳かにのたまったとき、おーというため息とともに、我が心に美しいものを見たり聞いたりしたときにながれる審判の日のラッパの音が高らかに鳴り響いたのである。
富士山の遠景をバックに白馬にまたがる鷹狩姿のチョンマゲ男。
突然ズームアップして芥川隆行か誰かの気持ち高めの御声で一声、「暴れん坊・将軍!」ずだだぁーん、だぁんだんだんだぁあーん。
これは多分見た人すべてが感動に胸うち震え、その美しい日本語のリズムに心ときめかせてしまう一瞬の訪れだと思うのであるが、実際ジョージ・ブッシュってその姓名の合間に日本的な「間」を入れて厳かに読むと、なんだか途方もなく気持ちのいい言葉である。
子供が精神上成長しないまま大きくなったような、情けないとっちゃん坊やのようなあのアメリカ人も、この素敵な語感でだいぶ得をしているような気がする。
逆にあの顔でトーマスだったら救われない。
私、結構こういうコトバの響きって好きなので似た言葉を並べさせてもらうと、
ジョージ・ブッシュ
暴れん坊・将軍
ピンポンパン・体操
ウルトラマン・タロウ
JR・東海
インドシナ・半島
モーニング・娘
榊原・郁恵
生姜焼き・定食
・・などなど。
これらを「暴れん坊・将軍!」というフレーズで、かっこつけて言葉に出して読んでみると、なかなか味わい深いものがある。

余談ではあるが、松平健が降りた今、「将軍」は果たして誰がやるのか?誰にお鉢がまわってくるのか・・。
あの「成敗」してニヒルに遠くを見やる視線の似合う暴れん坊な役者ってなかなか思いつかないけど、たぶん私の予想ではモッくんである。
もちろん題名は「暴れん坊将軍2」。
単なる続編ではない意味深長な字づらがたまらない。





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