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第30回
断食 2003.12.1
食道入り口に栓
この葦原と瑞穂の豊穣たる国、現代日本において、普通に暮らしている一般市民が空腹で路傍に倒れるようなことはほぼありえないが、しかし世の中には空腹飢餓状況を好んで作り出す人種というものがいて、それは例えば「修業」であったり、「ダイエット」であったりするわけだけれど、そういう傾斜角40度気味の転がりだしたら止まらないかも知れない一種の生物的緊迫状況に自分(他人)を追い込んでいくということは、ある意味、死を直感してその生をストレイトに味わう、という、スイカにかける塩、あるいは真昼の砂地に写る影のような、明確にして厳密なるその境界線の悦びにも似て、極私的な思いとしては、生きてるうちに一度は経験しておくべき人生の第三コーナーのような、そんな気がする。
そして世間ではその自律的行為一般を指して「断食」と称するのであるが、これはその語感から来るものものしい畏敬行事的イメージ、あるいは、恐怖の生理的拷問イメージとはまず相容れない行為であって、それとはうらはらに実は人間以外の動植物は日常的に遭遇しておる日常茶飯(!)時である。
ある種の肉食動物は一カ月に一度狩りを成功させれば食いつなげる、といった話や、アメリカシロヒトリの成虫には口がない!とか、うちのアボカドちゃんに3日間ほど水をあげるの忘れちゃったよ・・という話も、その主体的意味においては「断食」である。
また、厳密にいえば日本人が三度の飯を食っているこの間隔間の食べてない数時間というものも「断食」に近いものがある。
そういう意味では「ダンジキ」などというそのものものしい表記発音に比して、その行為イメージというものはそこら中に氾濫している。
だいたい、この断食行為が、例えば拷問のようなネグロポンテな目的のために使われている地域というのは古今東西皆無であって、それはこの断食という行為が人間という生物を辱しめたり忘我忘恩の極地に追い込むような非道の仕打ちでないことを物語っている。
ある日突然当局に捕まって、さあ早く吐いちまったほうが楽だぜ・・とウイグル獄長のような男に「コソバシ(こちょこちょ)」と「ダンジキ」の二者択一を迫られたら迷わず私は「ダンジキ」を選ぶと思うのである。
そしてこの言い訳じみた説明の後に言うもおろかであるが、私はこれまでハルバル生きてきた時間の中において何度も「断食」を経験している。
今でこそ、毎日毎日三度の飯を欠かさず食べる純日本人的行動様式の私も、結婚して、「あなたの健康と、明日と、未来とユメを考える」といった、おまえはいったい何様やねん?というどこかの医薬品業の手先たる奥さんができるまでは、時間と空間のゆがみきった、つまり不規則かつ退廃的食事を恒常的にとっていたのである。
そこでは、「食事」という行為は偶発的かつ衝動的な要因に左右される行動であって、ある意味「うんこおしっこ」の排せつ行為とも同態で、一日に何度するかはその日置かれた状況と、境遇にかかっている。
行動範囲内にトイレが存在するか、あるいは視線、動向の気になるようなオネエちゃんが周囲に存在するか、気温湿度タイミングなどの環境、時間的制約はどうか、といったさまざまな外部要因によって一日にひき起こされる排泄発射回数というのは決められてくるものである。
逆に、突き進み迫ってくるような波状の衝動の有無でいうと、「食事」行動は、その他「性衝動」のような、キミがいてボクがいる、といった偶然かつ玉突き事故的要因をその構成要件として内包する、ある意味逼迫感のない本能行動の方によく似ているのかもしれない。
そのような状況の中、例えば、ある梅雨の季節に一週間ほど雨が降り続いて、外に行くのもなんだか億劫で、「まあそのうち晴れる日もあるわさ」というナニワ演歌の楽観的思考がその思念を支配していた場合、ほぼ100%の割合で邸宅外部へのお出かけというものは延期され、つまり食文化行動的にいうと「おあづけ=断食」の状態が延々と持続するという羽目に陥っていく。
そして最初の二日ほどは家庭常備ラーメンや卵を食べていたけど、そのうちそれも尽きて、「まあ水分が体の80%といわれる人間だから・・」という残りの20%をほぼ無視した、目的と過程と結果を意図的にすり替えたかのような、つまり水だけが経口食道落下物となって過ぎていく一週間という状況はなかなかにスリリングである。
しかしここで一番気になるその食物摂取欲望の度合いと噴出する渇望の規模というものは、想像に反してあまりにあっけなく、期待外れなほどあっさりとしている。
つまり、腹減って死にそう・・などという情けない弱音や、そこらにあるカバンや枕を煮てくっちまうぞ!という修羅のごとき鬼の衝動というものはなく、穏やかな、色の無い透き通ったようなこころ持ちでいられるのである。
そして結末を先に言うと、やはりこちらの思惑どおり、まあある意味当然のように、雨は十日後にははたと止んで、嬉々として雨後の筍よろしく外に出かけた私は、洋風レストランで「生姜焼き定食」という、今考えると極端に振れるなあ、という食べ物を喜び勇んで摂取して、30分後にすべてを吐瀉外部排出を完了した、という報告になる。
その昔、釈迦がスジャータにもらった粥一杯の感動物語とはかけ離れた世界がそこに介在したのであった。
まあこれは極端な例で、普段は一日一膳ーん!という程度の亜窮乏生活であったのであるが、この常時胃の中はスッカラカンの感覚というのは、今では味わえない、甘露、醍醐のネクタリン感覚であった、というのが事後的な印象である。
例えば、キリストも釈迦もマホメットも、悟りの前になんらかの形で断食をしているという事実を鑑みるまでもなく、「断食」という行為は人間の意識を浮揚させ高揚させ、ある高みへと押し上げる作用がある。
医学的な効果詳細、科学的考証は知らないけど、空腹状態になると、人間は神経細胞が活性され、太陽プリズムの赤射作用により触媒周期の亜金属が蒸着して(・・以下略)、まあつまりその意識が磨ぎ澄まされていって、普段は見えないシラミやダニの一挙手一投足の動き、人の心の機微、動揺まで感じ取れるようになってくる。
早朝の湖って行ったことあるじゃろか。
あの一点の澱みなき静寂と凪の中に沸き起こったわずかな水面の動きというのは、大蛇か湖の主か、というほどの驚愕と動揺のさざなみを心のうちに引き起こす。
そういう静中の動、はきだめに鶴(ちょっと違うかな)、という人間の野性的道理を思わせる鋭い感覚というものが、断食を行なうことにより備わって、その空腹極限の人間は、ある意味「悟」ってもおかしくない耳ナリタガログタンドラ状況に追い込まれてくる。
その頃の友人が私を宗教関係のヒトと思っていたり、あるいは極めて宗教的な意味で尊崇(距離を置く)したりしているのも当然といえば当然なのである。
そしてそのフォルテッシモに高まった大音声意識の中、それが例えば一カ月一年続いたとしても、そのまま栄養失調や脱水症状で死んだとしても、そこに絶望と絶叫の欲望の奔流があるかというと、決然として「ない」と思われる。
そのまま死に絶えるのもまったくおろそかでない、というのが想像される唯一の終幕の大団円なのである。
そういう頭脳が澄み切った、煩悩や執着から離れた意識感覚、というのは人生に一度は持たなければならない、選民高等人間の義務である、というのがその経験から導き出される一つの結論である。
ラマダン(断食月)という言葉も最近よく聞く言葉になったけど、あれをやらなくなったら、イスラムの自爆テロの聖戦戦士は半減するだろうな、というのが私の密かな憶測である。
昔から食足りて道を知るとか、金持ち喧嘩せずとか、そういう言葉があって、そういう意味ではたしかに人間は腹空かしてたら駄目なのかなあとは思うのだけど、しかし、究極的な目的としては人間がなぜ飯を食うかといえばその命の維持というのがほぼ100%占有率で正しい回答になる。
だから生き延びるのに最低限の食事をして、異様に目をぎらぎらさせて神経磨ぎ澄まして生きていく、というのはすばらしく正しい生き方ではある。
しかし世の中にはその正反対に位置する、目的と手段を履き違えて取り違えてしまったような風潮というものが確実に存在して、これにはワタシ断固として毅然と反論を唱えたいのである。
それは誰とは言わないけど、お腹が減るのが嫌だから食べる、という考え方、あるいは、ある時間になるととりあへず何をおっぽりだしてもワタシは食べるわよ、という考え方である。
その切迫感というのはなんだか無根拠ながら鬼気に迫るものがあって、夜中にお腹が減るのはイヤ、という理由だけで、いま腹減ってなくても寝る前に何かボリボリと食べてから寝る、というオソレオオクモ病的な行動を伴うことが多い。
それほど腹が減るというのは恐ろしいことなのだろうか。
腹が減ることは罪悪なのであろうか。
そして一生腹の減ることのないシステムに生きるその人は、何か起こってもあまり興味がわかず、何を言ってもコタエない、腹がいっぱいならそれで幸せ・・というある意味ノー天気かつシアワセなかっぱえびせんのような生き方をしている。
そういう意味では常時腹いっぱいのフォアグラ製造用アヒルちゃんなんて、よほど人?格者にできているのであろうなと想像がつくけど、一方、性格的には無感動無反応でホントつまんねだろなと思う。
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