海洋空間壊死家族2



第3回

屠畜   2003.3.25



そのまなざしなる額に
脳漿の染みつきたる
楔あてがいて
そのまなざしなる上より
ちからこめて
鎚こそ振り下ろさめ



「牛女がいる」というと膝を乗り出してくるようなタイプの人間が私は好きである。
その人はその昔、水曜スペシャルの川口探検隊シリーズを欠かさず見ていて、小学校の臨海学校に出席したため、アマゾンの怪魚ガーゴイルの回を見逃して、20年経った今でもそのことを後悔して生きている、というような人であろうと私は考える。
しかし期待を裏切るようで申し訳ないのであるが、ここはそういう話の内容ではないのである。面目ない。
それでは「牛女」とは何か、というと、これはもう、単純明快に言って、ごついお姉ちゃんということである。
例えばキャシー中島を見たとき、その言葉は広範な納得性をもって群集に迎えられるのではないか。
あるいはメイ牛山を見たときも同様なエクスタシーを我々は感じることができる。
そして世の中をぶらついたとき、あ!牛女だ!と感じられる場面というものは我々が考えている以上に、または記憶装置に残っている以上に多い、というのが客観的事実なのである。
そして、よく考えるとくだらないのでよく考えないようにして「牛女」の特徴というものを考えたとき、つまり、「ごつい」という一般的見解を因数分解すると、第一に「首が短い」という事実に我々は突き当たる。
これはもう、アゴの存在だけがその女性をジャミラに堕してしまうのをかろうじてとどめている、というくらい極端に首が短いのである。
そして続け様に第二の特徴、「えらが張っている」という事実にも、我々は当然のように、はたと突き当たるわけである。
牛という動物を思い起こしてみたとき、前足の付け根から第七頸椎を経て首へのラインというのは、ほぼくびれの無いまま草食動物特有の発達した臼歯の基幹たる「えら」へと続いていくというところからも、過剰なえらの主張というものが「牛女」の牛度を否応なく高めていってしまうということは自明の理である。
最後に、第三の特徴として、これはもう当然という顔をして、「太り気味」という事実があぐらをかいてそこに鎮座おはしますということになっている。
「これら三つの特徴を持って牛女の必要十分条件とする」というのが、第32回異生物研究学会への私の第一動議である。
さて、さらにいうと、その「牛女」のイメージはちまたに溢れかえっており、ある意味、そのタイプの人間が、かわいいと認識されている場合さえもあるおそれがあり、危惧があると私は考える。
もっというと、例えば「モーニング娘。」の中にも「牛女」はいた!と私は告発するのである。
初めてテレビでその女を見たとき、ラモーンズのメロディーにのせて、「牛女が来たぞ!」という警句が私の心のなかで駆け巡ったりしたのである。
何せ音声つけずにテレビ見るからね。
そしてこの牛女がアイドルとして認知されているということはつまり、好みの異性のイメージなんてものまで、たれかにコントロールされ踊らされている、操られているのではないかという客観的警告としての慄然たる疑念に発展してくるのである。
モーゼが山籠もりから帰ったとき、民衆は金の牛の偶像をたてまつり神をないがしろにして堕落していたというくだりがあったと思うが、まさにその歴史がくりかえされんとしているといっても過言ではない。
牛女は醜いというのが通常考えられる人間の象形学的結論である。
牛女をかわいいと思ってしまう衝動というものは、獣姦にも等しき退廃的、形而上学以前のキュベレイ的痴戯である。
そこにはたれかに糸ひかれているとでも考えない限り、なんともやるせない、人間の可能性に悲観的にならざるを得ないような深みへと追い込まれている感覚というものがある。
そしてここで話は一変するが、最近テレビでみかける女性アイドルが皆、韓国人に見えるというのは私だけなのだらうか。
事実、韓国人も多いようだが、この辺りの扇動的イメージコントロ−ルらしき映像群にも私はきな臭さを感じる。
皆がみな、韓国風が好き、ラーメンが好き、となっていくあたりがいやらしい。
誰かの好みをなぞらされているという、異物溜飲時の嘔吐的抵抗感があるのである。
なんだか、大学一年生の時、上級生どもに一晩飲まされ続けて、気がつくと、寝ゲロまみれの朝を迎えた風呂場の何たるさむざむしさよ、という喪失感ただよう修羅状況を思い出してしまう。
そういう群れの慣習、強制的かつ排他的利己的な色に染まっていく、浸食されていくような感覚が私には恐ろしい。
だいたい、経験測上、「群れ」のやること、感じること、というものにろくなものはない。
葬式で死人の骨を箸でいじくり回したり、電車でアホのように足を広げて座ったり、一人では何もできないくせに群れた途端に他人に対して無感動、無反応になれるタイプの人間というのは実際多い。
そういう群れの論理に知らず知らず従ってしまっている可能性があるというのが私には耐えられない、恐怖にも近い恥辱なのである。

「ハト女」もいる!というと最初は膝を乗り出していた人も、もういいからいいからという反応をしそうでちょっと寂しいが、本当に「ハト女」はいる!と声を大にして衆目に喚起したい。
それでは「ハト女」とはどんな生物かというと、鎖骨の下のあたりが妙にはりだして、いや乳ではなくて、それより上の第三胸骨あたりが、不自然な感じに丸みを帯びて膨らんだ女のヒトのことである。
人類骨格学的にいうとダンゼン「美しくない」という特徴なのであって私はその特徴を有するヒト、特に美人を見るたびに落胆したり、嘗胆したりしている訳である。
空家となったマンションのベランダにひっそりと棲息し、鼻の両脇にまめつぶの付いた、瞬きの激しい女が、その部屋を下見に来た者を威嚇するというような話を期待していたヒトは残念でしたというよりほかはない。





戻る

表紙