海洋空間壊死家族2



第29回

ハロウィーン   2003.11.21



田中さんチ・・・5
ここのオバサンは愛想が悪くて
子供を侮っているフシがある

倉田さんチ・・・4
前ここのオジサンに車にいたずらしたと疑われたことがある
ただしオバサンは良い人そうで毎朝笑って挨拶する

松村さんチ・・・1
おばあさんの一人暮らし
特になし

小野田さんチ・・・3
ここには2学年上の良造がいる
いつも威張っている

寺田さんチ・・・1
70前くらいのオジイサンがいて、この人はコワイ
すぐ怒る
前鎌を持って歩いていたのを見た

井上さんチ・・・100億万
あのオバサン、
一年前、運動会でこけたことをいまだに覚えていて
会うたびに目が笑っている
許せない



このあいだ久しぶりに仕事を遅くまでやってアワワと終電に向かって歩いていたら、頭に星の瞬く触覚をつけた女の子、というもおろかな、つまり年の頃30前後の女どもを見つけ、おうぇでえ?と声にならない感慨を漏らした5秒後に、今度はフランス人形の集団を見つけ、「・・うん、これは近所でビジュアル系の何かのコンサートがあったのだな・・」と自分自身に決着をつけようと半ば強引に理論武装しようとしていたら、今度は魔女数人があらわれて、ここはドラクエか?と思うと同じに、いくら鈍い私でも、そうかそうか、と心穏やかなる解を見つけだしてある意味ほっとして帰途に就いたわけであるが、つまり、これは10月31日の話で、ハロウィーン真っ盛りの大阪なんばの街であったのである。
いままでは、例えば教会の結婚式でいかづちのつえを2本頭上にかかげたあくましんかんが、新郎新婦に何やら呪文を唱えるのを見たり、太秦映画村で忍者が走り回っているのを見かけたり、まあ特殊な場面ではそれらしき人々を見ることはあったけど、とうとうそれはオモテ社会、公道にはみでてしみでてきてしまった、と思うと深い感慨が胸に去来する。
このコスプレ人種というのがいつから大きな顔をしだしたのかよくわからないけど、ジャパニーズクールじゃねえだろと思うのは正常な感覚であると思うがどうなのであろうか。
特にオジサンはハロウィーンというとファイナルカウントダウンの世代なんじゃけど、世間ではかぼちゃに三角や四角の穴ボコを開けて近所に乞食してまわるおコモさんイメージがコモンセンスとして着実に流布しつつあるのである、と思うとなんだか寂しいのである。
※編集長註…「Final Countdown」を演っていたのはHelloweenではなくEuropeである。

しかし世間でいくら仮装したファンタジアな人々が酔っ払ってうろついていても、身近なところで子供がハロウィーンで喜んで歩き回っているという話を聞かないのはどうしたことであろうか。
例えばうちの近所でも子供が飴やチョコレートを求めてうろついたという話を聞かないし、娘の行ってる過保護過干渉のむにゅむにゅ幼稚園でそのような企画が講じられそれを巡って大人と地域が蠢動しているという様子もないようである。
このような状況AとBを綜合して思うに、ハロウィーンて日本人の肌にはあわない行事なのではないだろうか。
そうでなければなんらかの改善や修正を加えた上での日本的ハロウィーンというものがそろそろ普及していてもおかしくないはずである。
クリスマスやバレンタインなどという、あからさまにイカレポンチなイベントを喜んで取り入れてきた日本人が、ハロウィーンについては二の足を踏んでいるという状況証拠がまったくもって面白おかしい。

その原因についてはいろいろな説があるが、まず一つめは托鉢僧の存在である。
これって一般のお宅にはあまり現れないという意味ではラーマ奥様インタビューや、除菌もできるジョイのような、あけすけないかがわしさがあるけれど、京都のある住宅地付近には頻繁にその姿を現すことがあって、その種族のテリトリー、縄張り、シマを荒らすことは、いくら末法の世の日本人であっても侵しがたいという遠慮がある。
人様に生活の糧をいただいてその尊い志を昇華する、という仏教文化のない非ニッポニアニッポンには分からないだろうけれど、いまだその文化の残滓は日本人の心に息づいているといっても過言ではない。

二つめとして、いくら面白おかしい変装をして歩き回っても、そのご褒美が単なる飴やチョコレートでは、最近の恵まれ世間づれした子供にはアピールできるインパクトがない。
つまり子供が喜ばないから盛り上がりに欠ける。
私が子供の頃でも、子供会の配るお菓子はもっと気が利いていたから、今でいうとケーニヒスクローネやクロービスハボローネなどという横文字の高級欧風菓子でも折り詰めにして出さない限り子供はついてこない。
もっというと、そういう気取ったおしゃれな舶来ものを出さないと、馬鹿にされてしまうような気後れが我々大人のほうにも芽生えつつある。
しかも、クリスマスやバレンタインは聖〜と言われるようなホーリーナイトなゴージャスステータスがあるが、ハロウィーンにはそういったクリスチャンなプレステージな雰囲気がない。
もとがケルトの異教徒の習俗であるから、万聖節などといわれてもやはりキリシタンどもは深層心理の奥底の眼底で、唯一神的な狭隘な心根でもって、どうしてもその行事を一段貶めてみている。
そういう行事そのものの次元や土俵が一段低く見られているという心理状況も行事内体温の低い、つまり盛り上がっていかないゆえんである。

三つめはトリックorトリートの「トリック」、つまりイタズラをしたときに果たしてそこに日本社会としての明快なコンセンサスがあるか、というと、「大いに心許ない」という理由がある。
たとえば泥を顔にかけまくるような祭りとか、火の粉を頭からかけまくる祭りとか、そういう豪快な祭りというものが日本全国にあるけど、実際事情をまったく知らない人を対象としてそれをやったら、恐怖の首狩り族襲撃にも似た怨恨の傷害事件に発展してもおかしくないメイワク行為である。
ナマハゲに襲われた子供がちびって泣きわめくのも無理はないのである。
しかしそれに対する土俗的コンセンサスというものが厳然として日本社会に存在するから集団内の社会的均衡がようやく保たれているわけである。
そしてここでハロウィーンという西欧習俗に立ち戻って考えたとき、今のところ、お菓子を用意していないウチにはどんないたずらをしてもいい、という特別な赦しは付近一帯近所のおじさんおばさんジジババにはまったく浸透していない。
だから例えばその玄関に落書きしてくたくたにしてしまった場合、あまりに真剣で非情な反感反撃が巻き起こって、予想だにしなかった地域間紛争に発展してしまう可能性もなくはない。
さらに、子供だからと馬鹿にしていると、日本人てそういうどさくさ紛れの時にその内心の激情を一気に吐き出すという悪い癖、つまり群れになると歯止めのきかない、非人間的なそら恐ろしい心情というものを幼いうちから備えているため、なにか納得性の低い行為対象、規模の濃淡が見え隠れする、つまりあからさまな個人攻撃がそこに現れてしまうであろうという蓋然性もその行事の普及にブレーキをかけている要因であると思われる。
逆に言うと、ワタシ、今子供に還ってそのハロウィーンという行事が普及していてかつ参加できるならば、確実に襲撃して撃滅してしまうであろうオウチを全国規模で数軒持っているのである。

そういう諸々の日本的事情が、ハロウィーンの憂鬱モラトリアム状況を演出しているのではないでしょうか、とこのようにワタクシ結論づけるわけなのである。
そういえば最近、日本人が西安の西北大学(だったか)の文化祭で排撃されたという事件があったけど、つまり上記のようなイミで、中国で赤いブラジャーつけてくねくね動いたらいけないのだと思うのである。
自分たちが赤いブラジャーをつけたが最後、快楽と破滅の二重螺旋階段をかけくだってしまうであろう事態を本能的に中国人は理解していてそれを恐れたのである。
あのナンタルチアの思いも寄らない反駁の激情は、その赤ブラ行為がまさに現在中国人の置かれた人格的状況そのものなのである可能性を中国人自らが証明しているわけなのであるな。

日本男児にハロウィーン。
中国男児に赤いブラジャー。
鬼に金棒。
敵に塩。
水魚の交わり。
火に油。





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