海洋空間壊死家族2



第28回

稚児   2003.11.12



風の音もしない灰色の砂漠で
子供が輪になって遊ぶ。

輪から外れた子は爆裂して
残った子はひきつった笑いをたたえながら
さらにくるくると回る。
白い歯をのぞかせて輪になって遊ぶ子ども



ここに上げる3つのものは、ある共通した理由で、私大嫌いなものなのだが、えー、嫌いな順に並べると、演劇、映画、現代美術というふうになっておる。
この3つを見て、ああ、この人はこれらのここが嫌いなんだなあ、とわかってくれた人、というのは、この3つをある程度知っていて、ある程度愛していて、そして、私と同様にその共通するある理由をもって何となく距離をとっている人に違いない。
逆にこれらを心から愛していて、趣味としてはばかりなく公言しているような方、または生活の一部ともなっているほど好きな方には、一生わかってもらえないだろうと思われる。
というより、あまり敵を作りたくないので本当は言いたくはないけど、実はこの3つのアート群を嫌いなわけではなくて、この3つを好きな人々、というのが、私どうしても好きになれない、というか、関わり合いになりたくない、というか、近寄らないでほしいと思うのである。

実際の話、これら3つのアートに関して、私の知っているところというのはほぼ無いに等しく、さしでがましいのだけれど、私の乏しい経験上の見立てによると、演劇って本当におもしろい!と思うし、映画も、好きな映画というのもたくさんあるし、現代美術も、美術館に行ってみれば、そこそこに楽しめるものだというのはわかっている。
しかし、ここに、間接的な、ある媒介者というか、解説者というか、ある意味、趣味の人をさしはさんだ場合、急降下するビオフェルミン沚冩薬使用前のおなか、つまり急激な落胆が私を襲撃する。

たいがい、この演劇やら、映画を好きな人、というのは、半端ではなくこの対象を愛し、研究し、さらにそれを人にしゃべりたくてしょうがない、近所のおばさんのようにあたりをうかがってはそのチャンスを狙っている、というのが私の今までの研究成果であり、印象である。
ついさっき、今の今まで、無口で、「僕、人間という生物に興味が無いんです」と無言の主張をしながら、カレーライスを食っていたような無表情人間が、その話題の取っ掛かりを見つけようものなら、その周りの空気や話の流れなどお構いなく、それについての蘊蓄と、情熱をつらつらと延々と語り出す。
そして、しゃべり出したら止まらない横浜ギンバエのような小一時間というのは、彼らの仲間うちでは至福の時なのかも知れないが、あまり興味の無い人間にとっては苦痛の異次元空間である。
そして、ある一つの領域に深くハイリクンデイッタ人間というのが陥りやすい、非一般性の尊重の法理というものがあって、その分野において一般に知られた、つまりは、それこそが芸術である基盤であると思われるのだが、その一般に分かり易い、受け入れやすいもの、というのを極端に排撃し、その裏がえしの衝動として、専門的で普通には分からないものを賞賛し、それによって自分の特別な価値、存在、知識をシャチ誇るという、稚拙な行動をとりだす、ということが、彼らの行動のうちに観察される。
しかし、そのような心の動きというのは、ある意味、人間の自然な欲求であるような気がするので、あまり気にはならないのだが、しかし、大人として社会生活を営もうとしているのだったら、その構成員としてのルール、一般規範は知っておいてほしい、というか、これまで生きてきた中で学んでおいてほしかった、というのが素直な感想である。
つまり、そういう趣味の人で固められた場、あるいはそのために設けられたような場以外の場所では、それについて専門外の人には分かりにくい話はしない、という暗黙の3分ルールがあると思うのである。
たとえば、音楽を趣味とする人たち、というのは、結構多いと思うのだけど、「それ系の話」、というのは、本当にその分野の音楽が好きな人々が集まった場所以外ではめったに聞かれない。
水泳をやってた人や、剣道をやってた人がその専門分野のテクニックや、ローカル大会のヒーローなどを語るところにも出くわしたことはないし、文学少年が好きなロシア文学について、べらべらと話し聞かせているというのも見たことが無い。
それなのに、映画や、美術や、クラッシック音楽好きな人が、それについて素人に語っている場面というのは、飲み屋で説教しているオヤジや、会社で新人の女の子を指導しているニヤケ顔の男なんてのより、見る頻度が高いといっても過言ではない。
全人類がその趣味を共有しているという思い込みがあるのか、それとも、よっぽど自分の興味の対象を語り合える人材が少なくて、欲求不満なのかとも想像するが、しかし、映画なんてのよりもっとローカルな趣味嗜好を持つ人間というのも、まわりを見るとたくさんいるし、そういう自分の趣味を広げたいというカビ胞子の哲学の仲間づくりの理由でもないようだ。
それではどうしてそこまで無理して、がんばって、時代劇の悪人のごとく、頼まれもしないのに、しゃべくりひけらかしてしまうのか、というと、想像するに、その自分の熱情と知識とそこから認識する、自分のバーチャルな才能というもので、相手を疲れさせる、いや、もっと言うと、社会通念上の優位を築きあげようとしているのではないだろうか。
そう邪推してしまうほど、彼らはあけすけに、息もつかせぬ情報と感情の吐露を我々に投げかけてくる。
そして、それこそがそれらを嫌悪する、一つの理由になっているのだが、またさらに、そのような過大な主張を必要とするほど、これらのアートは、現実感を失ってしまってきているというところが二つ目の嫌悪理由である。
たとえば、天井桟敷を見たことのない人間には理解できない演劇とか、ブルーという映画で使われた革命的カメラアングルのパロディーであるとか、あるいは前衛美術でいうと、説明書きを見ないと理解できない、というより、その題名と説明書きに頼りきった絵画彫刻とか、つまり、そういう自陣営外の一般人や、サークルを外れた大木凡人には分かりませんぜ、というような、ヒトをコバカにした雰囲気を持つ、というメルクマールが上記の3つの芸術をずらりと串刺しにしている。
つまるところ、専門知識を持たない一般的人間がそれを鑑賞したとき、何も理解できず、ストレートにおもしろくない。
それはまるで、びっくり日本新記録の轟二郎が、毎回、なんだか無意味なんだけど妙に難易度の高い、聞いたこともないようなびっくりの競技に、チャレンジャーとして向かっていくような、むなしくもはかない、絶望と徒労のドンキホーテ、いや、ロシナンテなのである。
そして、この分かりにくいアート主体と、分かる人だけの客体による壮大な孤立化の過程で、まわりの純真無垢な人間に中途半端に接近して、ニワトリが先か、タマゴが先かの論議に似た、循環計算のリンネシステム的迷惑をかけているというのが、現代日本における現代芸術の悲劇なのである。
これは日本の学術系組織とその論壇にも当てはまることで、昔、私がもう少し賢かった頃、法律の本なんてのを読んでいたときに、「もっと簡単に言えば3行ですむのに」という一冊の本とか、「保留」でも通じるところを「留保」と読んだりして、何の意味もない、部外者排撃の手段がそこかしこにちりばめられている、というような状況というのを目の当たりにした。
ものごとを深く追究していくと、議論は拡散し、一般的には意味不明になる。
そして、それを一般に分かりやすく説明できる、再構築する才能のない、つまり、中途半端な探究者が、「こんなこと分からないほうが、知らないほうが悪い!」と半ば逆ギレ的に、抽象的でコムズカシイ話をしたり、作品群を見せびらかして、嗜虐的に悦びを感じている、というのが日本の知識階級と言われる人々のヨロコビぐみ的現状なのである。
そんで、さらに、そのまわりにたむろす、もっと低俗な、才能のないバーチャル才能人間が、サロンのようなものを形成し、実際には自分は何もできない評論家のくせに「この右手の掲げ方が、大正以来のポストモダンの流れを体現していて、実にスリリングだ」などと、なんだかわかったようなわからないようなことを言って事態をさらにヤヤコシクしているのである。
そういう、ヒトの才能をまるで自分の才能のように思い違いをして、ぴょんぴょん跳ねているクリティン患者のような行動も私には耐えられないお手上げの心象風景である。

突然だけど、たぶん今、中学生と話をしたら、お友達になることはできない、あまつさえ私はブチ切れてしまう、という確信がある。
自分の中学生時代を思い出すにつけて、その自分勝手な、手前味噌な、根拠もない驕りと、狭い視野、誰彼かまわず人の上に乗っかってくるような、ゾウアザラシの雄のようなぶしつけさなどなど、枚挙にいとまないほど、その性質は昆虫気味にウザッタイ。
そのような前世界的性質を持ったまま成長してしまった、れっきとした大人が、現実世界に存在するという事実が私には恐ろしい。
中学生アート三兄弟どもが、多様性という言い訳に寄生して生きながらえていくことはまあ仕方がない、認めよう。
しかし、その諸々の第二次性徴期的衝動を圏外に出してはならない。
そういう淫靡な欲望の処理は仲間内で、という当然の定理的事実を理解していただきたいものである。
簡単にいうと恥を知れ、ということである。





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